古代の歴史

セーヌ川に沈められた5つのケーソン――パリ・メトロ建設の苦闘

サン・マルタン運河も、技師たちに大きな課題を突きつけた。一時的に水を引き、河床の5メートル下を通るトンネルを建設しなければならなかったからだ。

しかし、何よりも深刻な障害となったのはセーヌ川である。シャトレとサン・ミッシェル大通りの間で、路線は川の二つの流れを次々と横断しなければならなかった。当初、路線はアカデミー・フランセーズ(学士院)の真下を通る予定だったが、「不朽の人々」と呼ばれる会員たちが、これを「大逆罪」だとして抗議したため、ビヤンヴニュは計画を変更せざるを得なかった。

幅広い本流のために用意されたのは、長さ36メートル、38メートル、43メートル、幅9.60メートル、高さ9メートルのケーソン(潜函)3基である。支流側には、長さ20メートル(その他の寸法は同じ)のケーソン2基が充てられた。

5基のそれぞれには、高さ1.80メートルの作業室が設けられていた。最初の3基はシャンジュ橋の上流側に、残る2基はサン・ミシェル橋の上流側にセーヌ川へ沈められ、その後、徐々に川面から15メートルの深さまで沈降させていった。この長い工事の期間中、5人の作業員の命が失われたことも忘れてはならない。

オペラ座前での離れ業

報道各社に大きな話題を振りまいたビヤンヴニュのもうひとつの離れ業が、オペラ座前で行われた工事である。ここでは3つの路線が交差する予定だった。周知のとおり、オペラ座はまるごと「水の袋」ともいうべき地下水帯の上に建っているため、技師たちの計算は一筋縄ではいかなかった。長いあいだ、広場には巨大な穴が口を開けて恥をさらしていたが、やがて車道の22メートル下まで沈められた金属製のケーソンの力を借りて、巨大な石造りの柱が設置されたのである。

ライバル「北南線」の登場

こうした工事が進められる一方で、技師ベルリエは市議会から、ビヤンヴニュの計画には含まれていないもうひとつの地下路線――モンマルトルとモンパルナスを結ぶ路線――の敷設特許を獲得していた。この「北南線(Nord-Sud)」もまた、セーヌ川の河床の下をくぐり抜ける必要があった。それ以外の場所では、川は地上の橋梁によって渡ることになる。

ギマールのアール・ヌーヴォーが街を飾る

そうこうするうちに、メトロは走り始め、その営業区間はどんどん伸びていった。駅は増え続け、パリの街角には地下への入り口を告げる魅力的な小型建築「エディキュール」が次々と姿を現した。鋳鉄の欄干には、絡み合って伸びる植物の茎を思わせる装飾が施されている。建築家エクトール・ギマールが愛した「植物」様式、すなわちアール・ヌーヴォーが、世紀転換期のパリで華々しく花開いたのである。

地質学者と考古学者の歓喜

一部の審美家たちがその意匠を案じる一方で、地質学者や考古学者たちは歓喜に沸いた。メトロ建設の工事は、彼らにとって思いがけない恩恵ではなかっただろうか。首都パリの基盤をなす地層を心ゆくまで観察できた者もいれば、石棺(サルコファゴス)、土器、浮き彫り、さらにはマンモスの骨といった、センセーショナルな発見にありついた者もいたのだ。

占い師の不吉な予言

とはいえ、すべてが順風満帆だったわけではなく、悲劇的な出来事も少なくなかった。

1902年のある日、一人のジャーナリストが名高い占い師カヴィユ夫人を訪ね、自分の未来を明かしてほしいと頼んだ。霊能者は陰鬱な表情を浮かべ、翌年には恐ろしい事故が起きて死体の山が築かれるだろうと予言した。もっとも、これは大した予言ではない。私たちの住む地球は、悲劇的事件の宝庫なのだから……。それでも当時のパリ市民は、まさか自分たちの誇るメトロを悼むような重大事故が起こるとは、夢にも思っていなかった。

しかし、予言は的中する。翌1903年8月、クーロンヌ駅で発生した火災は84人の命を奪い、パリ・メトロ史上最悪の惨事となったのである。