
1953年11月20日、夜明けがトンキン地方ハノイ近郊のザラム(Gia-Lâm)およびバクマイ(Bac-Mai)両飛行場を照らそうとしていた。フランス人・ベトナム人あわせて1,800名を超える落下傘兵が完全武装し、張り詰めた神経で出撃の時を待っていた。彼らを率いるのはビジャール少佐(Major Bigeard)、ブレシニャック少佐(Major Bréchignac)、スケ少佐(Major Souquet)という三人の指揮官。いずれもインドシナ戦争で鍛え抜かれた歴戦の勇士である。
離陸区域には67機のC-47ダコタ輸送機がずらりと並び、乗員たちもすでに離陸準備を整えていた。
作戦開始──霧に包まれた谷の上から
同じ頃、約300キロメートル先では、小雨の中を一機のダコタが霧に覆われた谷の上で旋回していた。機内にはボデ(Bodet)、デショー(Décheaux)、ジル(Gilles)の三名の将軍が乗り込んでいる。彼らはまもなく、ベトミン軍が支配する小さな村へ降下予定の三個落下傘大隊に対して出撃命令を下すことになる。その村の名こそ「ディエンビエンフー」である。
午前7時、突如として空は晴れ渡った。直ちに搭乗命令が下され、ここに「カストール作戦(Operation Castor)」の幕が切って落とされた。なお「カストール(Castor)」とはフランス語で「ビーバー」を意味する言葉でもある。
やがてディエンビエンフーの上空にはダコタ機の群れが轟音を響かせ、数千人のタイ族農民は驚きの目で空を見上げた。航空機が兵士たちを投下すると、何百もの白い落下傘が青空に次々と花開いた。
落下地点「ナターシャ」と「シモーヌ」での苦闘
ベトミン兵たちは戦闘配置へと急いだ。落下地点(D.Z.)「ナターシャ」では、訓練中だったベトナム人一中隊が、ビジャール率いる第6植民地落下傘大隊(6e BPC)の隊員たちをたちまち迎え撃った。この落下地点は非常に広大で、投下された数トンの物資を回収するのは困難を極めた。機関銃、81mm迫撃砲、無線機などが地面に散乱し、無線機の多くは着地の衝撃に耐えられなかった。さらに悪いことに、一部の迫撃砲はついに行方不明となったのである。
一方、より南の落下地点「シモーヌ」では、ブレシニャック少佐指揮下の猟兵落下傘連隊第2大隊の隊員たちが、厳しい条件のもとで投下され、建制単位で再集結して行動するのに苦労していた。
村の攻略──わずか13名の犠牲で制圧
増援を待たず、ビジャール少佐は配下4個中隊のうち3個中隊を率いて自らの落下地点を出発し、正規ベトミン軍部隊が激しく防衛するディエンビエンフーの村へ攻撃を仕掛けた。
午後3時には、ビジャールの増援として降下していたスケ少佐の第1植民地落下傘大隊が到着し、掃討戦に加わった。ベトミン第148連隊は整然と撤退し、村の住民たちは山へと逃げ込んだ。フランス軍の損害は死者13名、負傷者40名にとどまり、精鋭の空挺部隊による奇襲攻撃の有効性がここでも証明されたのである。
第二波の降下と陣地防御への道
翌11月21日には第二陣の落下傘兵がディエンビエンフーの盆地に降下した。外人落下傘大隊第1大隊(1er BEP)のレジオネールと、ベトナム人落下傘大隊第8大隊の隊員たちである。彼らを率いたのは、着地の際に脚を骨折してしまったラングレー中佐(Lieutenant-Colonel Langlais)、そして作戦全体を指揮したジル将軍である。
重要な物資が落下地点「オクタヴィー(Octavie)」へ投下されたが、送り込まれたブルドーザーのうち一台は着地の衝撃で故障してしまった。そして11月22日、新たなベトナム人大隊の到着により、フランス軍守備隊の兵力は4,560名となった。ここに至って、陣地防御工事が本格的に始まることになり、後の「ディエンビエンフーの戦い」へと続く長い戦いの準備が進められていった。