
1969年の中ソ国境紛争は、1960年代に深刻化した中ソ対立(中ソ分裂)の帰結として、ソビエト連邦と中華人民共和国との間で発生した一連の武力衝突である。
両国の国境に位置するウスリー川の島々、特に珍宝島(ダマンスキー島)をめぐる戦闘は、二つの共産主義国家を核戦争の瀬戸際まで追い込んだ。最終的に国境画定に関する合意が成立するのは、実に1991年のことであった。
紛争の発端
紛争は1969年3月1日から2日にかけての夜に始まった。SKSカービン銃で武装した約300人の中国兵が、珍宝島上でソ連国境警備隊に待ち伏せ攻撃を仕掛けたのである。この襲撃により、ソ連側は31名が死亡、14名が負傷した。交渉のため中国兵のもとへ向かったイワン・ストレリニコフ中尉は、何ら警告を受けることなく射殺された。
1969年3月14日、ソ連軍は中国軍の攻勢に対抗するため、T-62A戦車4輌を投入した。レオノフ大佐の指揮する545号車は、中国軍の対戦車地雷を踏んで行動不能となり、鹵獲されることとなった。レオノフ大佐以下の乗員は、動けなくなった戦車から脱出を試みた際に殺害された。この日の戦闘では、ソ連軍は圧倒的に数で劣倒的に数で劣勢であり、弾薬を使い果たした後、川の北岸へ撤退せざるを得なかった。
翌3月15日、赤軍は報復として、当時極秘扱いだった「グラード」多連装ロケット砲部隊を用いて、ウスリー川中国側岸に展開する人民解放軍部隊への砲撃を行い、珍宝島への強襲を実施した。中国軍の拠点はグラード砲撃によってほぼ壊滅し、3月16日の夕刻には島に平穏が戻った。この作戦の結果、珍宝島はソ連の支配下に置かれたままとなった。
緊張の高まり
戦闘はその後約5か月間途絶えたが、1969年8月についに再燃した。今度の舞台は新疆方面沿いの中ソ国境であった。緊張は高まり続け、中華人民共和国とソビエト連邦の間で核戦争が勃発する可能性すら現実味を帯びる事態となった。
アメリカの戦略
紛争の間、アメリカ合衆国は「二つの共産主義国家間の紛争」に対して意見を持たないという中立の立場を維持した。しかし、この紛争を機に、北京はワシントンへと急速に接近していくことになる。
当時ニクソン大統領の国家安全保障問題担当補佐官であったヘンリー・キッシンジャーによれば、1969年1月、ソ連政府は新大統領に対し、中国の核施設への先制攻撃の可能性について非公式に打診していたという。ニクソンはこれを拒否したものの、ソ連からの要請内容を中国側に通告し、数か月後にはキッシンジャーの秘密訪問を中国側に提案することとなる。
結末
紛争は1969年9月11日、二つの共産主義大国間の停戦によって終結した。
これらの国境衝突において、ソ連は赤軍将兵60名の損失を公表し、一方の中国も人民解放軍兵士100名の犠牲を発表した。しかし外国人観察者の不在もあり、両国の反体制派兵士の間では、双方合わせて25,000名が死亡したとする数字が流布していた。
1991年、ボリス・エリツィンの主導で締結された条約により珍宝島の中国主権が確立され、ロシア当局は同島を北京に返還した。
紛争の概要
期間:1969年3月2日~1969年9月11日
場所:新疆、珍宝島
結果:双方が勝利を主張、開戦前の状態へ復帰
兵力:
ソ連軍 814,000名/中国軍 658,000名
損害:
死者800名以上