
ソ連が西ベルリンへの陸路を遮断したとき、アメリカは史上最大の「空輸作戦」を組織した。ベルリン封鎖により、冷戦はその最も緊迫した局面に達したのである。
冷戦の決定的対決
ベルリン封鎖は、冷戦における究極の対決であった。米ソ両国の決定的な綱引きが行われたのは、ほかならぬベルリンにおいてだった。封鎖の期間中、アメリカは戦略爆撃機をイギリスに配備し、初めてモスクワを核兵器で牽制する姿勢を示した。そして封鎖が解除されたとき、ソ連と西側諸国は、その将来を自らの手で決めることになるドイツについて、暗黙の合意に達していた。
こうした理由から、ベルリン封鎖は冷戦における重大な転換点とみなすことができる。
不信と誤解が積み重なる時代
イデオロギーの衝突や激しい論争が続く時代において、不信と誤解が積み重なり、やがて長期にわたる対立の時代へと移行していった。それぞれの陣営は、すでに定まった立場に落ち着いていたのである。同時にこれは劇的な出来事でもあった。11か月にわたり、西ベルリンの運命は、テンペルホーフ、ガトー、そして1948年以降はテーゲルに着陸する輸送機だけに託されていたのだ。
空輸作戦は、第二次世界大戦の最盛期をも上回る規模で展開された。乗員たちの忍耐力を支えていたのは、西ベルリン市民の並外れた勇気であったと言えるだろう。
封鎖がもたらした歴史的意義
封鎖と空輸は、冷戦の政治的・外交的混乱に劇的な統一をもたらし、1945年以来強まりこそすれ曖昧なままだった東西対立の問題を凝縮し、明確化する一助となった。このドラマはまた、ドイツ史においても極めて重要な役割を果たした。ナチス政権と軍事占領のもう一つの負の遺産を払拭し、民主主義的価値の防衛とともに自らの未来を結びつける道を、ドイツ人に切り開いたからである。
「封鎖は二重に重要であった」と述べるのは、見かけ上の単純さにとどまるかもしれない。
封鎖は意図的なものだったのか
封鎖がどのようにして起こったのかを理解しようと、「冷戦」との関連で考察すると、いくつもの疑問が浮かび上がってくる。その中でも特に重要なのが、「封鎖は意図的なものだったのか」という問いである。
出来事の現実性そのものは否定できない。1948年の冬、空腹に震えたすべてのベルリン市民にとって、そして空輸作戦で極度の疲労と絶え間ない危険に耐えたすべての米英の航空兵にとって、封鎖は紛れもない現実であった。しかし、それは果たしてソ連指導部が望んだ結果だったのだろうか。彼らは本当に西ベルリンへのあらゆるアクセスを断つつもりだったのか。その対決は計画的なものだったのか、それとも一連の偶然と誤解が重なった結果にすぎなかったのか。
事前にあった警告
この封鎖の興味深い点の一つは、事件が起こる前にすでに一定の解釈が存在していたことである。1947年、ソ連と西側諸国の関係が悪化するにつれ、アメリカ政府は在外の最重要人物二人から、「ロシアはベルリン封鎖を試みる可能性が十分ある」という警告を受けていた。一人は駐モスクワ米国大使ウォルター・ベデル・スミス、もう一人はドイツ軍政長官ルーシャス・D・クレイ将軍である。
ここから、ソ連が何らかの計画を進めており、アメリカの代表者が何らかの形でそれを察知していたと推測することも可能である。しかしより妥当な見方は、この二人が単に、ロシアが事に至った場合に取りうる行動を推測していたにすぎない、というものである。
1948年には、クレイ将軍がアメリカ参謀本部の幹部に対し、戦争が差し迫っている可能性があると警告した。だが戦争は実際には勃発せず、クレイの報告が高まる緊張の反映以上の何物でもないと考える根拠はなかった。封鎖の可能性に関する警告も、開戦の切迫感に関する警告も、ソ連の意図を裏付ける明白な証拠とはなりえなかった。それにもかかわらず、ソ連軍が封鎖の構築に着手すると、これらの警告に影響された西側諸国は即座に「全面封鎖」を思い描いた。その反応は深い絶望から固い決意まで実にさまざまであった。しかし注目すべきは、ベルリン封鎖が完全なものになるずっと前から、そうなることはすでに想定されていたという事実である。一体何が起こっていたのか。