
朝鮮戦争の開戦当初、連合軍が前線に繰り出したのは、第二次世界大戦の残存機を中心とした雑多な機体の寄せ集めであった。整備された滑走路など望むべくもなく、飛行場は比較的平坦な地面に鋼鉄製の穿孔鋼板(マーストン・マット)を敷き詰めただけのものだった。板と板の間には危険な穴や石が露出し、タイヤのパンクが頻発した。滑走路の平均的な長さは約1,500メートル。このような条件下でジェット戦闘機を運用することは、パイロットと地上要員の双方にとって深刻な課題となった。
ジェット機を苦しめる劣悪な環境
当時のジェット機は、レシプロ機に比べて重量が格段に重かった。平均して9トン対5トンという差である。より高い圧力で膨らませたタイヤは破裂のリスクを抱え、離着陸速度も平均250km/hと、レシプロ機の200km/hを大きく上回っていた。しかも初期のジェットエンジンは、離陸時に大型レシプロエンジンほどの推力を発揮できなかったのである。
JATOロケットと燃料消費のジレンマ
離陸時の出力不足を補うため、一部のジェット機には胴体下面にJATO(Jet Assisted Take-Off=ジェット補助離陸)ロケットが装着され、使用後は投棄された。しかし、この対策は兵站と補給の問題をむしろ複雑にするものだった。
さらに最大の懸念は、低高度における莫大な燃料消費であった。ジェット機は本来、高度10,000メートルでの戦闘を想定して設計されていた。ところが朝鮮半島では、戦場からわずか300メートル、ときにはそれ以下の高度で作戦行動を取らねばならなかったのだ。
ペンタゴンの模索とA-4スカイホークの誕生
こうした状況を受け、ペンタゴンでは活発な議論が交わされた。近接戦術任務により適した「現代的な航空機」を定義する必要があったのである。アメリカ海軍は、双発タービンを備え、高速で長い航続距離を持ち、未整備の野戦飛行場でも運用できる機体を望んでいた。だが、そのような機体が実際に建造されることはなかった。
朝鮮で直面した諸問題に対する最良の解答を導き出したのは、ダグラス社の技師エド・ハイネマン(Ed Heinemann)であった。彼が設計したのは、小型で簡素、それでいて極めて頑丈なジェット攻撃機――A-4 スカイホークである。しかし皮肉なことに、同機が登場した頃には戦争終結からすでに1年が経過しており、朝鮮戦争に投入されることはなかった。
こうして朝鮮空戦は、プロペラ機とジェット機が混在する異色の編成のまま終戦まで続けられた。それぞれが固有の弱点を抱えながらも、である。