古代の歴史

ケサンの戦い:ベトナム戦争における77日間の包囲と米軍の勝利

ケサンの戦いは、ベトナム戦争において米軍とベトナム人民軍(北ベトナム軍)、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の間で繰り広げられた主要な戦闘の一つである。有名なテト攻勢のさなか、1968年1月21日に始まり、77日間にわたって続いた。米軍の勝利に終わったものの、戦略的な意義については議論が分かれている。

ケサン基地

位置

ケサンの米軍基地は、南ベトナム北部、沿岸のフエから西へ約100km、山岳地帯の入り口に位置していた。ラオス国境からわずか10km、南北ベトナムを分ける非武装地帯(DMZ)からも南へ23kmしか離れておらず、戦略的な要衝となっていた。

基地の誕生

1962年7月、米特殊部隊がケサン村近くの旧プランテーション跡地に、当初訓練センターとして建設を開始したのが始まりである。同年中に増強が進み、9月には長さ400mの滑走路が完成した。その後、基地は大規模に拡張・強化され、ホー・チ・ミン・ルートへの偵察拠点、ラオス南東部からダナン基地へ至る主要な谷の制圧、DMZの監視拠点として機能した。

戦闘基地としての構造

基地本体はラオ・クアン川沿いと台地上に約1.8kmにわたって広がっていた。中心はアルミニウム製マットで舗装された全長1,200mの滑走路で、C-130ハーキュリーズなどの大型輸送機の離着陸が可能だった。誘導路がなかったため、機体は滑走路上で旋回して離陸態勢に入らなければならなかった。

滑走路の南側には第26海兵大隊、レンジャー部隊、野戦砲兵および飛行場管制の司令部と宿営地が、東側には主弾薬庫が配置され、さらに南に第2弾薬庫があった。防衛火力として、105mm榴弾砲M101(18門、射程12km)、155mm榴弾砲M114(6門、射程14.5km)、107mm迫撃砲M30(6門、射程4,020m)に加え、「ロックパイル」と「キャンプ・キャロル」に配置された175mm長距離砲M107が基地へのアプローチ路をカバーしていた。直接防衛用にはM48戦車6両、M50ロケットランチャー10基、M42自走対空砲4両、M2機関銃搭載トラック数両が備わっていた。

また、海兵隊は基地北方の881高地、861高地、南方の台地、ラオ・クアン川谷を塞ぐ558高地を占拠し、川東の950高地には無線中継所を設置。平原から突出する64高地からは広範囲に砲撃支援が可能だった。

戦いの序曲

敵情の把握

1967年末の「スコットランド作戦」中、基地周辺のパトロールと電子偵察作戦「ナイアガラI」により、かつてディエンビエンフーでフランス軍と戦った第304師団を主力とする北ベトナム軍部隊が、DMZ東部を経由してケサン方面へ移動中であることが判明した。

ウェストモアランド司令官はケサンの守備隊を増強し、かつてフランス軍がディエンビエンフーで決戦を挑んだように、ここで北ベトナムとの決着をつけようと意図した。北ベトナム側もこの決戦を望み、ケサンでの勝利はホー・チ・ミン率いる軍の地域支配と南部ベトコンへの補給路確保への道を開くものだった。

その後、海兵隊陣地への散発的な攻撃が続いたが、海兵隊も反撃を実施。1月20日、第26海兵小隊が北方の881高地への攻撃で敵を追い詰めた同日、米側に協力するベトナム人工作員から「大規模攻撃が迫っている」との警告があり、米軍は守備態勢を強化、基地は最高度の警戒態勢に入った。

戦闘の推移

敵味方の戦力

同盟国軍(主に米海兵隊)

指揮中隊、第26海兵連隊(191名)、同第1大隊(1,301名)、第2大隊(1,254名)、第3大隊(1,279名)、第9海兵連隊第1大隊(1,192名)、第13海兵連隊(砲兵)第1大隊(397名)、第3前方作戦基地(特殊部隊、588名)、第37南ベトナム・レンジャー大隊(318名)など、総勢約6,000名。

北ベトナム軍

第304、320、324B、325C師団、第270独立連隊、第16、45、84、204、675砲兵連隊、第208、214、228高射砲連隊、第7工兵連隊、第198戦車大隊(PT-76軽戦車装備)、独立工兵大隊、独立通信大隊など、推定2〜3個師団規模の大兵力。

包囲の開始(1月21日)

1月21日未明、861高地への迫撃砲攻撃に続き、工兵と歩兵が海兵隊陣地へ襲撃をかけたが、南方の881高地からの側面射撃を受けて撃退された。午前5時30分、周囲の山々に陣取った敵砲兵・迫撃砲による基地本体への猛烈な砲撃が開始された。最初の数発が主弾薬庫に直撃、約1,500トン(基地備蓄の90%)の弾薬が誘爆し、48時間以上にわたり大爆発が続き、米兵18名が死亡、43名が重傷を負った。

同時刻、ケサン村を守る南ベトナム海兵隊とレンジャー部隊も攻撃を受け、第2波の攻撃で村を放棄して基地内へ撤退した。以降、敵は偵察戦闘を繰り返すものの総攻撃には出ず、代わりに毎日約300発の砲弾を基地へ浴びせ続けた。テト攻勢の勃発により米軍総力が分散したため、即時の救援・増援は困難となり、弾薬不足に悩む守備隊は苦境に立たされた。

砲撃下のケサン

その後2ヶ月間、北ベトナム軍の砲撃は守備隊の日常となった。海兵隊は宿舎とシェルターを強化し、塹壕網を構築して迫撃砲・軽砲に耐えられるようにした。補給は極めて困難で、兵士は制限食と泥水、ネズミと共に過ごした。雨季の到来で基地全体が泥沼化し、常に迫る総攻撃への心理的圧迫と、昼夜を分かたぬ砲撃戦が続いた。

ホワイトハウスではジョンソン大統領が毎日、基地の縮小模型で状況を把握し、参謀本部は「基地は死守せねばならない」と進言。ベトナム戦争開始以来初めて、ホワイトハウス危機管理センターが24時間体制で稼働した。

ラング・ヴェイ陥落

基地から約9km西、ラオス国境近くのラング・ヴェイ特殊部隊キャンプは、1966年以来の拠点だった。X字型の4防衛拠点と鉄筋コンクリート製指揮所、50m幅の地雷原と有刺鉄線で囲まれ、約200名のグリーンベレーと約290名の南ベトナム非正規兵が守備し、57mm/106mm無反動砲、M2重機関銃、M72対戦車ロケット弾(1月24日搬入)を装備していた。

2月6日0時42分、ソ連製PT-76戦車11両を先頭に敵の総攻撃が始まった。工兵が有刺鉄線に通路を開き、照明弾の下で戦車が突入。106mm無反動砲で2両を撃破したが、多くの対戦車兵器が不発・故障し、敵戦車は残骸を迂回して外郭防衛線を突破した。守備隊は分断・孤立し、増援のルート9号線も敵占領下のケサン村を通るため使用不能、悪天候で航空支援も制限された。

隣の旧キャンプの南ベトナム兵は捕虜または戦死。ユージン・アシュリー指揮官がラオス人・山岳民族兵を率いて救出を試みるも戦死。生存した米兵は航空支援の掩護下で脱出した。特殊部隊24名中4名戦死、9名捕虜、非正規兵165名が最も多くの犠牲を出し、総計217名が失われた。敵損害は米軍推定で250〜500名。この陥落で敵はルート9号線を補給路として確保し、南西側の脅威を排除したが、戦車の大半を失ったためケサン本体への戦車突撃の脅威は消滅した。

空中補給と「スーパー・ギャグル」

空輸の困難と工夫

包囲下の約6,000名を支えるには日量約120トンの物資が必要だったが、敵の機関銃座、対空砲、滑走路への砲撃により着陸輸送は危険を極めた。C-130(20トン)、C-123プロバイダー(7トン)、C-7カリブー(3トン)が投入された。

2月11日、着陸直後のKC-130が迫撃砲直撃で爆発炎上(積載灯油10トン、搭乗員6名死亡)し、滑走路が一時閉鎖。小型機のみの運用では輸送力が足りず、低空パラシュート投下(LAPES:滑走路上空2mでパラシュート展開しパレットを射出)、グラップル・フックによる曳航回収、通常のパラシュート投下などが併用された。投下地点は基地東外側の300m×100mの狭い区域で、レーダー誘導により高精度で実施された。77日間でパラシュート投下8,000トン以上(600回超)、地上降ろし4,000トン、C-123が3機撃墜された。

前哨高地の戦いとヘリ補給

周囲の高地陣地(守備兵力の約20%、1,200名)は基地防衛の要だった。両陣営は激しい肉薄戦を繰り広げ、米側の損害率は約50%に達した。各陣地には前進航空管制官(FAC)が常駐し、迫撃砲の白煙(昼)と照明弾(夜)で目標指示、自陣から200m以内への至近爆撃も日常茶飯事だった。「ネイパームの熱気が顔に当たった」と海兵隊員は回想する。

これら前哨陣地への補給はヘリコプターのみに頼ったが、敵の対空火力が強化されるにつれ損害が増大、補給は困難を極めた。

スーパー・ギャグル作戦

ヘリ損失を減らすため、海兵隊は「スーパー・ギャグル(超大編隊)」と呼ばれる強襲輸送 tácticaを開発した。16機の輸送ヘリ(CH-46)を、観測・攻撃ヘリ(UH-1ガンシップ)、A-4スカイホーク4機(防空陣地制圧・ネイパーム)、さらにスカイホーク2機(アプローチ経路上に煙幕)、空中指揮機で厚く護衛し、10秒間隔で一斉に接近、ロープで物資を投下(必要時のみ着陸)し、最大5分で離脱する。ガチョウの大群のような騒音からこの名がついた。この方式導入後、撃墜はわずか2機に抑えられ、前哨陣地の命綱を繋ぎ止めた。

航空支援:ニアガラ作戦とアークライト作戦

ニアガラI作戦(1月14日〜21日)

攻撃開始前、大規模な偵察・情報収集作戦として実施。第101空挺師団の国境パトロールに加え、音響センサー搭載偵察機が敵の移動を探知、管制センター経由で即座に航空・海軍攻撃機へ目標指示を行った。

ニアガラII作戦(1月21日〜)

本格攻撃開始とともに、航空攻撃が主眼となった。天候許せば24時間体制で戦闘機・攻撃機が基地管制官の誘導で敵陣地を叩き、77日間で約5万トンの爆弾と1万トンのネイパーム弾が投下された。

これにB-52ストラトフォートレスによる「アークライト作戦」が加わった。グアム、タイ、沖縄から90分おきに来襲し、1機当たり23トンの爆弾を24時間投下し続けた。当初は基地周囲3kmを安全距離としていたが、敵の塹壕・坑道が米陣地に迫っていたため、2月18日以降は地上レーダー誘導で1km以内まで接近爆撃を実施。最終的に安全圏は1kmまで縮小され、敵陣地は徹底的に叩かれた。B-52は2,548ソーティで約6万トンの爆弾を投下、その爆撃密度は第二次世界大戦平均の3倍に達した。

戦闘の終結

本格的攻撃の失敗と敵の撤退

基地への直接攻撃は長らく偵察戦闘にとどまっていたが、2月26日、北ベトナム軍第66大隊が西防衛線(第37南ベトナム・レンジャー大隊担当)を強襲。米重砲(キャロル・ロックパイル)の集中砲火と大規模航空攻撃、守備隊の直接射撃の前に撃退された。

3月最終週、音響センサーが基地周辺の活動激増と砲撃の急増(3月23日は1時間平均100発、計1,000発超)を探知、守備隊は総攻撃を警戒したが、逆に敵主力が撤退を開始、約5,000名を残して姿を消した。海兵隊は積極的な出撃で周辺高地の敵を掃討し始めた。

ペガサス作戦による解放

3月31日、第1騎兵師団、第1・第26海兵連隊、第2南ベトナム空挺部隊がルート9号線沿いに救援攻撃「ペガサス作戦」を開始。騎兵師団が道路の南北の高地を掃討しながら救援縦隊の側面を守り、4月6日午後、南ベトナム・レンジャー先遣隊が基地に到達。8日には工兵によりルート9号線が復旧、騎兵師団主力が到着し海兵隊を交代させた。作戦は4月14日公式終了、ニアガラ作戦の爆撃効果を物語る多数の北ベトナム兵遺体(不十分な埋葬状態)が発見された。

基地の修復と放棄

第26海兵師団は4月18日以降メディアの脚光を浴び、5月23日ジョンソン大統領から殊勲部隊章を授与された。基地は大規模に再建されたが、わずかな砲兵陣地がクアンチ省西部作戦を支援するのみとなった。ジョンソン大統領がラオスへの戦線拡大を政治的理由で拒否したため、ホー・チ・ミン・ルート遮断の拠点としての必要性を失い、6月23日、基地は完全撤収・放棄された。

結果と分析

軍事的観点

米参謀本部はケサンを「勝利」と位置づけた。2ヶ月超の戦闘と大量の航空爆撃により、北ベトナム軍の死者は13,000名以上と推定された。ペガサス作戦では大量の武器・物資(戦争最大の戦利品)と文書・書簡が回収された。捕虜は少数だったが、「部隊は米空軍により壊滅した」と証言した。ウェストモアランド司令官は「逆転のディエンビエンフー」と称した。

戦略的観点

軍事的には明確な米軍の勝利だが、北ベトナムの真意は不明確だ。有力な見方では、これは北ベトナムの「戦略的勝利」であり、テト攻勢が同時進行していた都市部から大量の米軍兵力・物資・航空戦力を引きつけ、固定化することに成功したためである。すなわち、目的は米軍を殲滅することではなく、「拘束すること」にあり、それは達成された。この議論は現在に至るまで決着していない。