古代の歴史

ベトナム空戦:テト攻勢と航空支援・電子戦の実像

ベトナム空戦:テト攻勢と航空支援・電子戦の実像

テト攻勢とケサンの包囲戦

1968年1月末、共産側は旧正月(テト)に合わせて大規模な攻勢を発動した。しかし、空からの補給のおかげで、ケサンで包囲された海兵隊は陣地を守り抜くことができた――もっとも、投下された物資の実に3分の1近くが敵の手に渡ってしまったのだが。

ジョンソン大統領は依然として、すべての軍事行動を自分自身で決定しようとしていた。「私の明確な許可なく、一発たりとも爆弾を落としてはならない」。北ベトナムへの最も苛烈な攻撃は、相手を屈服させるどころか、味方パイロットに多大な犠牲をもたらすだけだった。ジャングルを抜けてハノイとサイゴンを結ぶフーチミン・ルートへの攻撃は、南部で戦う部隊への食料・弾薬の供給を遅らせこそすれ、完全に断ち切ることはできなかった。

電子戦システム「イグルー・ホワイト」

1969年までに、新世代の電子システムが実用化され始めた。その代表格が超長距離探知システム「イグルー・ホワイト(Igloo White)」である。フーチミン・ルートおよびその他の補給路周辺には、車両の振動を感知し、その信号を無線で送信する地上ソノブイ型センサーがびっしりと仕掛けられた。

こうした振動探知式センサーは、特別な装備を備えた航空機と連携して運用されることで、道路上を走る一台一台のトラックの位置を突き止めることが可能となった。

「人間探知機」を欺く奇策

「ピープル・スニファー(人間探知器)」も一定の成果を上げた。ヘリコプターで運ばれるこの装置は、人間の集団が発生させる空気中のアンモニア濃度を測定する仕組みだった。ただし、雨天時や湿気の影響で効果を失いやすいという弱点を抱えていた。

しかし、共産側はシンプルかつ極めて効果的な対策を編み出した。数千個の瓶に尿を詰め、ジャングル中のあちこちに吊るしたのである。これにより「スニファー」は完全に翻弄されることとなった。

無線操縦機と静音航空機の登場

1970年頃からは、無線操縦の無人機も重要な役割を担うようになった。一部は偵察任務に従事し、収集した情報をさまざまな手段で後方へ伝達した。他方、攻撃任務に投入された機体もあった。例えばBQM-34Aは、マーベリック、ホーボー、シュライクなどのミサイルを搭載・運搬し、ファンソンレーダーやSA-2サイトといった目標に対して発射する任務に使用された。

さらに1970年からは、敵部隊を至近距離で監視するための「静音航空機」という新型機の開発も進められた。Q-スターのような固定翼機や、「クワイエット・ワン」(OH-6Aの改造版)のようなヘリコプターは、至近距離にいてもほとんど聞き取れないほどの静粛性を実現しており、敵目標に関する情報収集に大きく貢献した。

54万人の駐留兵力と大規模空輸補給体制

1969年1月の時点で、ベトナムには依然として549,000人のアメリカ兵が滞留していた。その大半は徴集兵であり、前線での滞在期間はわずか4ヶ月程度だった。ところが、この種の戦争に何よりも必要なのは経験である。そのため米軍の主力部隊は、常に熟練要員の不足に悩まされ続けることになった。

米軍は3,600機のヘリコプターを含む計4,000機の航空機を投入していた。この数字は、開戦以来7年間に失われたヘリコプターの総数をわずかに上回るものであった。

この航空戦力は不可欠な存在だった。その基盤となったのは、第一次インドシナ戦争期にフランス軍が構築した(特に1951年、ドラットル・ド・タシニー元帥が主導した)多層的な支援基地網に類似したシステムである。各基地は絶え間なく補給を受け続けていた。

インドシナ戦争中、フランス軍は毎月、国道19号線に沿って車両縦隊を派遣していたが、待ち伏せ攻撃の標的となることが多く、最後のフランス軍縦隊は全滅させられた。同じルートにおいて、アメリカ軍は1970年には毎日5本の補給縦隊を組織した。ただし、その手段は空輸であった。CH-47C、CH-54A、CH-53といった大型ヘリコプターが、武装ヘリコプターの護衛のもとで最重量級の貨物を運搬した。護衛機は1日に最大13時間飛行し、機体によっては月間200時間を超える飛行時間を記録することも珍しくなかった。