
露出した陣地――Xレイ着陸地帯の危機
1965年11月14日、ベトナム戦争において米軍と北ベトナム正規軍が初めて正面から激突した「イア・ドランの戦い」。中央高地チュポン付近の着陸地帯「Xレイ」に降り立ったハロルド・G・ムーア中佐指揮下の第1大隊・第7騎兵連隊は、圧倒的な数の敵に包囲され、文字どおり「露出した」絶体絶命の陣地での戦闘を強いられることになった。
マーム少尉の前進と最初の接触
A中隊所属の少尉ウォルター・J・マーム(Walter J. Marm)は、着陸後ただちに自らの小隊を散開させ、戦闘地域へ向けて前進した。到着してまもなく捕虜2名を確保し、引き続きB中隊の予備小隊の位置に達した。マームはこの部隊と合流して苦戦する味方の救援に向かう考えだったが、その矢先、2個小隊が激しい射撃を浴びた。
敵部隊は、B中隊の右翼から分断しようとしてきたのと同じ部隊であり、今度はこの行動を中隊全体へ、さらにマームの属するA中隊へと拡大しようとしているように見えた。応射しながらマームは負傷者の後送を試みたが、あてがわれた軍曹は、それが不可能であることを悟った。
その間に敵は涸れた川床を伝って迂回し、背後からマームを捉えようとした。この移動の途上で、彼らは着陸地帯から前進してきたA中隊主力と遭遇する。続いて川床とその両岸で凄惨な白兵戦が展開され、小隊長1名と分隊長1名が最初の犠牲者となった。
支援火力の限界――スカイレーダー撃墜
A中隊とB中隊がこうして苦戦するなか、ムーア大佐と側にいた砲兵・空軍の将校たちは、なんとか支援の手を差し伸べようとしていた。しかし各中隊の迫撃砲はとっくに弾薬を使い果たし、一帯は土煙と硝煙に覆われていた。地面に釘付けになった兵士たちには、目標指示の基準となる有効な地点を見つけることができず、まともな火力支援を要請することすら困難だった。
前方航空管制の将校たちは、友軍の位置を推定することしかできず、安全が許す限り近くへ砲兵射撃と航空支援の火力を寄せるのが精一杯であった。一方、北ベトナム軍第33連隊と第66連隊は状況を完全に掌握しており、その射撃はあまりにも激しく、ついにはダグラスA-1Eスカイレーダー1機を撃墜してパイロットを戦死させた。
午後2時――衛生将校の着陸と5回目の輸送
着陸地帯、とりわけ北西部の窪み付近は「沸騰」状態にあったが、それでも第1大隊の衛生将校は午後2時に同地への着陸に成功した。彼は指揮所へ向かい、衛生兵4名の助けを借りて、続々と前線から運ばれてくる負傷者の治療を開始した。
危険を承知のうえ、ヘリコプターは5回目の飛行でC中隊の残りとD中隊の先頭要素を現場へ運び込んだ。着陸を終えると、最も重篤な負傷者は急いで機内へ収容されたが、離陸する前にパイロット1名とガンナー1名が負傷した。D中隊長はシートベルトを外す間もなく撃たれ、無線兵は命を落とした。あまりの火力に直面したムーア大佐は、D中隊の残りの着陸を禁止したのである。
D中隊長の脱出と包囲網の深化
D中隊長は戦死した無線兵の手から無線機を奪い取ると、火線をあえてくぐった4名の部下とともに、なんとか着陸地帯を脱出した。彼らはまもなく、マームが発見した敵集団――B中隊を包囲しようとしていた部隊――を攻撃していた2個小隊の右翼に位置取った。D中隊長は着陸地帯に残る残りの部下を呼び寄せ、彼らは周囲に陣形を整えた。
そこへB中隊長が駆けつけ、敵がすでに背後――自分と部下がほんの少し前までいた場所――へ回り込んでいたことを警告した。突如、この小さな指揮班はその場で戦闘を余儀なくされた。敵の火力は凄まじく、周囲の兵士たちは次々と倒れていき、D中隊長と迫撃砲小隊長は重傷を負った。
午後3時――リトルビッグホーンの再現か
時刻はほぼ午後3時になろうとしていた。ムーア大佐はC中隊(その最終部隊は5回目の飛行で到着したばかり)をA中隊右翼の延長線上に配置し、遮蔽(ブロッキング)要素とした。C中隊は苦労して配置に就いたものの、ここでも猛烈な攻撃に耐えなければならなかった。
まるで第7騎兵連隊が、1876年のリトルビッグホーンの戦いでカスター中佐とともに全滅した祖先たちと同じ運命をたどろうとしているかのようであった。
なお、この日の戦闘で敵の機関銃陣地に単身突撃し重傷を負ったマーム少尉は、その卓越した勇気により、のちに名誉勲章(Medal of Honor)を授与されている。