古代の歴史

ダグラスA-26インベーダー ― 三つの戦争を戦い抜いた米軍の双発攻撃機

ダグラスA-26インベーダー ― 三つの戦争を戦い抜いた米軍の双発攻撃機

機体概要

ダグラスA-26インベーダー(Douglas A-26 Invader)は、第二次世界大戦末期の1944年に実戦デビューし、朝鮮戦争を経てベトナム戦争まで、三つの戦争にわたって前線で戦い続けたアメリカの双発攻撃機です。高速性と圧倒的な火力を兼ね備え、米軍が実戦投入した地上攻撃・戦術爆撃機の中で「最良にして最後」の機体と評されました。

本機は、1936年以降ダグラス社が手掛けてきたDB-7やボストン/ハボックといった高性能双発軽爆撃機シリーズの進化の頂点に位置づけられる存在であり、総生産数は2,446機に達しました。終戦に伴い、さらなる改良型として計画されていた5,254機の追加発注はキャンセルされています。

基本データ

  • 就役:1943年
  • 退役:1970年代
  • 分類:攻撃機(地上攻撃・戦術爆撃機)

開発国と運用国

製造国

  • アメリカ合衆国(ダグラス社)

主な運用国

  • アメリカ合衆国
  • フランス(インドシナ戦争などで運用)
  • 南ベトナム

主要諸元と性能

  • 全幅:21.35m
  • 全長:15.47m
  • 全高:約5.6m
  • 最大離陸重量:15,880kg
  • 航続距離:約2,900km
  • 最大速度:約570km/h
  • 実用上昇限度:約6,700m

動力(エンジン)

プラット・アンド・ホイットニー R-2800-27/79 空冷星型18気筒レシプロエンジン(2,000馬力)×2基

武装

  • 12.7mm機関銃 最大20挺
  • 爆弾:爆弾倉内に最大1,810kg、翼下に910kg
  • ロケット弾:127mm×8発、または76mm×16発

開発の背景

1940年、アメリカ陸軍航空軍(USAAF)は、高性能かつ強力な武装を備えた新型双発軽爆撃機の開発を要求しました。ダグラス社の設計作業は極めて迅速に進み、1941年6月に3機の試作機が発注されると、初号機はわずか13か月後の1942年7月10日に初飛行を果たしています。

初号機のXA-26は、風防部分に防御機銃を備えたオーソドックスな爆撃機スタイルでした。2番機のXA-26Aは夜間戦闘機型として設計され、同世代のノースロップP-61ブラックウィドウに類似した武装構成――背部の遠隔操作式銃塔に重機関銃4挺、胴腹に20mm機関砲4門――を採用しました。

そして3番機のXA-26Bは、ノースアメリカンB-25ミッチェルの「ガンシップ」型にならって、機首に75mm機関砲を搭載した重武装の攻撃機型でした。

量産型への道

一連の地上試験および比較飛行試験の結果、米軍はXA-26Bを量産のベースに選定しました。75mm砲は撤去され、代わりに機首に固定式の12.7mm重機関銃6挺が装備され、さらに遠隔操作式の背部・腹部銃塔に各2挺ずつ、計4挺の機銃が追加されています。

特殊任務の際には、この強力な固定武装に加えて、主翼内の4か所のハッチに2挺ずつ計8挺、胴体側面の外部ポッドに各1挺の機銃を増設することも可能でした。対地攻撃時には、背部銃塔の2挺を前方に固定し、操縦士が直接照準・射撃できるようにも設定できました。

爆弾倉には最大1,815kgの爆弾を搭載でき、必要に応じて主翼下のハードポイントに増槽、907kgの追加爆弾、あるいは16発のロケット弾を懸架することができました。

実戦配備と戦歴

ダグラス社は初期量産型A-26Bを2本の組立ラインで生産し、合計1,355機を完成させました。最初の機体は1944年半ばに部隊へ引き渡され、同年11月19日に初の実戦を経験します。ヨーロッパ戦線の第9航空軍に配属されたA-26Bは、USAAFが第二次大戦中に運用した爆撃機の中で最速であることを証明し、数か月後には太平洋戦線でも実戦投入されました。

1945年には第2の量産型A-26Cが登場し、対日作戦で前任機の任務を引き継ぎました。A-26Cは透明な硝子張り機首を持つ標準的な爆撃機型で、固定武装は簡素化されており、1,091機が製造されています。

戦後の歩み

終戦直後にも数百機のA-26が現役に残りました。1948年6月、「A」カテゴリー(攻撃機)の廃止とマーチンB-26マローダーの全機退役に伴い、本機は新たに「B-26」の呼称を与えられています。

朝鮮戦争ではインベーダーが集中的な実戦運用に投入され、そのうちの1機はこの紛争における最後の爆撃任務に参加するという、印象的な幕切れを飾りました。その後も機体は改良を重ねながら現役を続け、フランスや南ベトナムでも運用されるなど、ベトナム戦争の頃まで第一線で活躍し続けたのです。