古代の歴史

ハネス・ゲンツェン ― 第二次世界大戦最初の公式エース

1940年4月、個人撃墜数ランキングの頂点に立った男

ハネス・ゲンツェン(Hannes Gentzen)の名前は、必ずしも広く知られているわけではない。しかし、このドイツ空軍(Luftwaffe)少佐は、34歳にして第二次世界大戦最初の「公式エース」となった人物である。

ポーランド戦役での鮮烈なデビュー

開戦時、当時大尉(Hauptmann)だったゲンツェンは、駆逐航空団第2連隊(I./ZG 2)を指揮していた。この部隊は主力機Bf.110の配備を待つ間、暫定名称「JGr.102」としてBf.109Dを運用していた。1939年9月1日、彼の部隊はただちにポーランド戦役へ投入された。

わずか2日で、ゲンツェンはエースの条件である5機撃墜に到達し、それを突破してみせた。9月3日、地上のポーランド機9機を破壊する出撃の途上、彼は往路で戦闘機PZL P.11を1機、帰路で爆撃機PZL P.37「ウシ」(Łoś)を1機撃墜。夕刻には3機目となるP.11がデンブリン(Dęblin)近郊で炎上しながら墜落した。翌日にはブロドニツァ(Brodnica)上空でP.37の編隊を迎撃し、単独で4機を撃墜。個人戦果は確認7機に達した。

ポーランド空軍が壊滅すると、グループは戦術支援任務へ移行し、戦役は9月27日に終結した。この日、帝国元帥ヘルマン・ゲーリングは自らJGr.102の指揮官のもとを訪れ、一級鉄十字章(EK I)を授与している。

「奇妙な戦争」下の西部戦線と11月6日の惨敗

依然としてBf.109Dを装備したままのJGr.102は、西部戦線へ移動した。当時の独仏国境では、作家ロラン・ドルジェレスが「奇妙な戦争(drôle de guerre)」と呼んだ静かな攻防が続いていたが、それでもフランス軍との小規模な交戦は頻発していた。

ラッヘン/シュパイヤードルフに展開したJGr.102は、11月6日についにフランス空軍と正面衝突する。ゲンツェン率いる27機のBf.109Dが、メス北方でG.C.II/5戦闘航空群のカーチスH-75A 9機と遭遇したのである。激しい格闘戦の結果、Bf.109D型の弱点が露呈。4機のメッサーシュミットがフランス軍戦線内に撃墜され、さらに4機が自軍戦線内へ墜落した。ドイツ側の戦果はわずか1機で、それはウゼ(Houzé)中尉機を撃墜したゲンツェンのものだった。

この痛恨の敗北を受け、JGr.102はボンへ後退。フランスの報道機関が見出しで大きく取り上げたこの失敗について弁明するため、ゲンツェンはベルリンへ召喚された。

Bf.110への再装備、そしてランキング首位へ

ようやく本命のBf.110を再装備し、I./ZG 2として再編されたグループは、1940年4月初頭に前線へ戻ってきた。4月7日、ゲンツェンはG.C.I/5のサルマン(Salmand)准尉のH-75Aを撃墜し、通算9機目の戦果を記録。この時点で彼はヴェルナー・メルダース(Werner Mölders)を1機リードし、個人撃墜数ランキングの首位に立っていたのである。

少佐(Major)へ昇進したゲンツェンは、その後のフランス戦役でさらに9機を加えた。合計18機――ヴェルナー・メルダースと同数に達したとき、彼の経歴は1940年5月22日、突如として幕を下ろすことになる。

ヌフシャトー飛行場での悲劇的な最期

その日、ゲンツェンはヌフシャトー(Neufchâteau)飛行場で部下のパイロットたちにブリーフィングを行っていた。そこへイギリス空軍のフェアリー「バトル」軽爆撃機編隊が低空で飛来した。これを迎撃しようと、ゲンツェンは自機へと走り、銃手としてドーマイエ(Domeier)中尉が後に続いた。しかし離陸の瞬間、メッサーシュミットBf.110は木に衝突。両名は即死した。34歳だった。

ポーランド侵攻からわずか8ヶ月余りで18機の戦果を積み重ねながら散ったゲンツェン。その名はメルダースやガランら後の著名なエースほど知られていないものの、大戦最初の公式エースとして、航空史に確かな足跡を残している。