古代の歴史

シャルル・ヌンゲッサー ― 第一次大戦で43機を撃墜した仏エース、大西洋に消えた男

戦果

公式確認撃墜数:43機

生涯

1892年3月15日、パリに生まれたシャルル・ヌンゲッサーは、少年期をヴァランシエンヌで過ごし、そこで機械工学と電気を学びました。しかしその心は常に広大な天地へと向かっていました。若き彼の目に映った理想郷はアルゼンチン。南米へ渡ったヌンゲッサーは、文明の手がほとんど及んでいないこの国で、ロデオ、自動車やオートバイのレース、ボクシングの試合など、最も危険な冒険に次々と身を投じていきました。

シャルル・ヌンゲッサー ― 第一次大戦で43機を撃墜した仏エース、大西洋に消えた男
1914年8月、動員令によりシャルルはフランスへ呼び戻されます。一介の騎兵として第21猟騎兵連隊に配属されましたが、入隊からひと月も経たないうちに、騎兵ヌンゲッサーの名はすでに話題となっていました。1914年9月3日、彼は単独で敵前線を突破し、攻撃計画を携えたドイツ高級将校4名を乗せたモール社製自動車を発見。一行を捕虜にすると、愛馬を車の後ろに繋ぎ、自らハンドルを握って凱旋したのです。一騎兵が戦利品を司令部まで届けるには並大抵の苦心が必要でしたが、彼は見事成功し、4名の捕虜と貴重な作戦計画を将軍本人に手渡します。その名を歴史は残していませんが、この将軍はヌンゲッサーに「モールの猟騎兵」というあだ名を授けるとともに、当時社交界のエリートだけに開かれていた航空部隊への即時転属を許可し、さらにはあの車まで与えてしまったのです。

シャルル・ヌンゲッサー ― 第一次大戦で43機を撃墜した仏エース、大西洋に消えた男
1915年1月21日、アヴォール飛行学校の門がヌンゲッサーの前に開かれます。到着からわずか5日後に単独飛行を許され、3月2日に操縦免許を取得。さらに6日後にはサン=ポル=シュル=メールの第106爆撃飛行隊(VB 106)に配属され、ヴォワザンX爆撃機の操縦桿を握ることになりました。4月15日、オステンド上空で最初の実戦任務に出発します。同行したのは爆撃機整備員であり何でも屋のポション。死が二人を引き離すその日まで続く名コンビがここに誕生しました。4月26日にはルーセラーレを爆撃。帰還途上でアルバトロス1機を追い払いましたが、僚機は榴散弾4発を受けてポペリンゲに不時着。大事には至らず、夜になってダンケルクへ戻りました。5月1日には、今度は帽子とヘルメットの間に榴散弾が突き刺さっています……。

VB 106はナンシーへ移動します。7月30日、ヌンゲッサーはヴォワザン機のテスト飛行を予定していましたが、出発直前にポン=ア=ムッソン上空へドイツ機6機の出現が報告されます。彼は一瞬もためらいませんでした。「テスト飛行」と称して離陸したヌンゲッサーは、ベゾーモンの係留気球を爆撃して帰還するところだったアルバトロス1機の退路を断ち切り、数発の銃弾で左ラジエーターと水管を打ち抜きました。アルバトロスは自軍戦線へ戻れず、塹壕と塹壕の間に墜落。ヌンゲッサー初の戦果です。これによりクロワ・ド・ゲール(武功十字章)を授与された一方で、無命令行動を理由に8日間の営倉入り処分も受けています。1915年8月11日には各種機体のテストのためル・ブルジェへ派遣され、月末にはプロペラ回転面を通して機銃を発射できるモラーヌ・パラソル「ガロ型」で飛行隊に復帰。その後ブロンでカプロニ機に乗った短期間を経て、10月27日、フェカン大尉指揮下の第65戦闘飛行隊(N 65)へ転属しました。以後、彼は毎日単機で出撃し、当時「攻勢巡航」と呼ばれた任務でセクター全体をくまなく捜索し、ドイツ機を探し求めたのです。

1日に5時間以上飛ぶことも珍しくなく、頻繁に敵と交戦しましたが、多くの場合、獲物の最期を目視確認することはできませんでした。公式承認の厳格な要件は、確実といわれた戦果を次々と彼から奪っていきます。ヌンゲッサーは戦術家ではなく、ひたむきな突撃型の人間でした。獲物に食らいつき、発砲する瞬間は目を閉じる。再び開けた時に見えるのが、炎に包まれる獲物か、迫る地面か、それとも病室の天井か――誰にもわかりません。彼は愛機「ベビー」ことニューポールの側面に悪趣味なユーモアあふれる徽章を描き、「モールの猟騎兵」の異名に彩りを添えました。1915年11月21日から29日にかけては、ニューポールのカウリングにプロペラ回転面越しに射撃できる機関銃を搭載する改造に取り組んでいます。1916年1月4日にはシャトー=サラン上空でフォッカー1機を捕捉しましたが、相手は5度目の通過の際にどうにか逃げおおせました。

シャルル・ヌンゲッサー ― 第一次大戦で43機を撃墜した仏エース、大西洋に消えた男
1月17日、カプロニ機でポン=サン=ヴァンサンに着陸した際に横転事故を起こし入院。退院したのも束の間、1916年1月29日、今度はポニエ戦闘機の試作機操縦中に重大事故に見舞われます。操縦桿が顎を折り、口蓋を骨折。両足は圧挫し、全身に多数の打撲と裂傷を負いました。他の者なら航空人生の幕引きとなるところですが、ヌンゲッサーは違いました。2か月後の3月28日、松葉杖をつき頭部に大きな包帯を巻いたまま退院すると、翌日にはもう飛行隊に復帰しています。歩けない? 問題なし! ポションがニューポールに彼を抱き上げ、任務のたびに乗降を助けたのです。4月3日、同一出撃の中で3度も空戦に参加し、3度目にしてキュミエール付近で偵察機1機を撃機1機を撃墜。翌日はオ・フールノーの池付近で双発機を仕留めました。この5機目の戦果は、開いた古傷の治療のため病院で祝うことに。少尉の階級章を受け取ったのも病床の上でした。

1916年4月24日、彼はバル=ル=デュック近郊のベオン台地で前線に復帰します。翌日にはヴェルダン北方のフランス軍塹壕内へLVG1機を撃ち落とし、さらに2機目を約1時間追跡の末、敵戦線越えで命中させました。2日後には単機で7機のドイツ機――フォッカー単葉機3機に護衛されたLVG4機――と遭遇。ヌンゲッサーはLVG1機を選んでスピンクール付近で炎上撃墜し、反撃する護衛機群から辛うじて逃れましたが、愛機は18発もの被弾を受け、もはやスクラップ同然でした。

そして恐るべきヴェルダンの戦いが始まります。N 65飛行隊は5月19日から21日のわずか3日間で4名のパイロットを失う消耗を強いられました。6月22日、ヌンゲッサーはアヴィアティク2機に正面から挑み、1時間に及ぶ激闘の末に2機を相次いで撃破。しかしみずからの機体もエンジンが停止し、有刺鉄線に突っ込んで弾痕に横転。頭部、右腕、左膝を再び負傷して入院します。前線復帰後の1916年7月22日、ドイツ機2機を攻撃してレゼパルジュ付近でアヴィアティク1機を撃墜しました。後に判明したことですが、この機体を操縦していたのは、8機の戦果を挙げ「プール・ル・メリット」勲章に輝くエース、オットー・パルシャウでした。

シャルル・ヌンゲッサー ― 第一次大戦で43機を撃墜した仏エース、大西洋に消えた男
第一次世界大戦で43機の公式戦果を挙げた元戦闘機エースであるこのパイロットは、1927年5月、無着陸大西洋横断飛行への挑戦を決意します。相棒のコリと組み、複葉機「オワゾー・ブラン(白い鳥)号」で、5月8日夜明けにル・ブルジェを離陸しました。翌5月9日、誤報によって新聞「ラ・プレス」はこの快挙の成功を報じます。しかし現実には、白い鳥は乗員もろとも海の彼方へと消息を絶ったのでした。