
ジャン=バティスト・ウジェーヌ・エスティエンヌ(Jean-Baptiste Eugène Estienne、1860年11月7日、フランス・コンデ=アン=バロワ生まれ ― 1936年4月2日、パリ没)は、フランスの砲兵将校にして軍事技術者である。近代砲術と軍事航空の発展に多大な影響を及ぼした人物だが、何よりも有名なのは、第一次世界大戦中に「突撃砲兵」と呼ばれる装甲兵器部隊をフランスで創設したことだろう。この功績により、彼は「フランス戦車の父」という称号で後世に名を刻んでいる。
若年期と初期の経歴
エスティエンヌは早くから数学の才能を示し、サン=ディジエのコレージュ、さらにバル=ル=デュックの高等学校で優秀な成績を収めた。19歳でエコール・ポリテクニーク(理工科学校)に入学し、1882年に131位で卒業。同年には全国数学コンクールで一等賞を獲得している。彼の関心は数学や哲学に及び、とりわけギリシャ古典に深い情熱を抱いていた。
1883年、ポリテクニーク卒業後は砲兵科を選び、少尉としてフォンテーヌブローの兵科応用学校に入校。翌年にはヴァンヌの部隊に配属された。勤務のかたわら弾道学を研究し、処女作『観測の誤差』を出版して科学アカデミーに提示した。この頃すでに、間接射撃の有効性を主張していた点が注目に値する。
1891年、第1砲兵連隊で大尉に昇進すると、ブールジュの工廠において照準用ゴニオメーターなど、自身の理論を実践に移すための測距計器の開発に着手した。1895年には第二作『推測の術』を刊行している。
1902年には少佐として第19砲兵連隊に転属するが、同時にパリの砲兵部門で理論研究を本格化させた。音響式測距儀といった精密機器を数多く開発し、電話回線による射撃修正の伝達方式を提唱した。こうした軍事技術分野での活躍とは別に、1906年にはパスカルの定理に関する研究論文を発表する余裕すら見せている。1907年にはグルノーブル砲兵学校の校長に就任し、ここで『戦争における士気』を著した。
軍事航空の先駆者
当時のフランス軍で最も優れた進歩的将校の一人と目されていたエスティエンヌは、1909年、ブラン将軍の信任を受け、ランスで創設されつつあった軍事航空部隊の指揮を委ねられた。彼はここで観測航空の技術と戦術体系を築き上げた。その後リヨンの第5航空群を指揮するが、ほどなくヴァンセンヌでの業務のため呼び戻され、そこでも砲兵航空部門の創設という野心的な試みを実現している。
第一次世界大戦が勃発すると、エスティエンヌはペタン将軍の師団に属する第22砲兵連隊の連隊長に任命された。シャルルロワの戦いでは、航空機による弾着観測を駆使した彼の砲兵運用はドイツ軍に強烈な印象を与えた。しかし、それでも歩兵は機関銃火の前に壊滅的な損害を被った。この光景を目の当たりにした彼は、1914年8月23日、こう断言している。
「諸君、この戦争の勝利は、あらゆる地形を走破できる車両に75mm砲を搭載することを、二つの勢力のうち先に実現した側のものとなるだろう」
「特殊砲兵」――フランス装甲部隊の誕生
1915年の夏、エスティエンヌは、シュナイダー社の技師ウジェーヌ・ブリエと、当時下院議員だったジュール=ルイ・ブルトンが、ホルト社製クローラー・トラクターのシャーシを流用して有刺鉄線を突破する車両の開発に着手したことを知った。彼は直ちにジョフル総司令官に構想を説明しようと試みたが、送った書簡はことごとく無視された。そこで12月1日、ついに私信を送り、12月12日にジョフルの副参謀長ジャナンとの面会を実現させたのである。
その間の12月9日、エスティエンヌはペタンとともにシュナイダー社のシャーシ実演を見学した。未完成の試作車の存在そのものが、装甲部隊創設への足掛かりになると直感したのだ。実際、12月20日にはシュナイダーCA1戦車の量産決定が下された。同じ日、エスティエンヌはルイ・ルノーを訪ねて軽戦車の開発を懇請するが、当初は断られている。
1916年2月2日、エスティエンヌはフォシェ少尉にホルト・トラクター2台、小規模な工作施設と10名の人員を託し、「幅1メートル50の塹壕を越え、有刺鉄線網を踏み潰せる機械」を15日以内に造り上げるよう命じた。17日、その機械は完成してヴァンセンヌで試験に成功し、同日のうちにシュナイダー社は400両の製造を決定した。これこそがシュナイダーCA1である。さらに7月16日には、ルイ・ルノーが方針を転換し、自社で軽戦車の開発に着手すると通告してきた。
同年8月、エスティエンヌはブルトンとともにロンドンへ渡り、フランスの戦車が実戦投入可能になるまで英軍の戦車使用を控えるよう説得を試みたが、この外交的働きかけは失敗に終わり、イギリス軍は9月15日からマークI戦車を戦場に投入した。奇襲効果は失われ、戦果も決して満足のいくものではなかった。それでも英戦車の登場が引き起こした熱狂は、フランス装甲部隊の整備加速につながった。
9月30日、エスティエンヌ大佐は「特殊砲兵」総監に任命され、10月17日には准将の星章を授かった。彼はコンピエーニュの森の中のシャンプリュー空き地に新兵器の拠点を設営し、砲兵の伝統に由来する最初の教範と慣習をこの部隊に与えた。11月27日には、ルノー社が製造可能な機関銃搭載型軽戦車1000両の調達を総司令部に要請した。ところが自動車部門の監察官ムレ将軍の反対により、兵器大臣がこの発注を取り消してしまう。エスティエンヌは再び奔走して発注を守り抜き、1917年2月22日、150両の購入承認を勝ち取った。
1917年4月1日、特殊砲兵はシュナイダー208両(うち34両は使用不能)とサン=シャモン48両を受領した。しかし新総司令官ニヴェルは、時期尚早だと考えるエスティエンヌの反対を押し切り、4月16日、ベリー=オ=バック付近で第5軍を支援する形で特殊砲兵を実戦投入した。結果は惨憺たるもので、参戦した2個群を率いたボスー少佐を含む多くの戦車乗員が犠牲となった。この痛ましい初陣は特殊砲兵の解体危機すら招いたが、ニヴェルに代わって総司令官に就任したペタンが、エスティエンヌの事業を守った。
以降、特殊砲兵の将来は盤石となり、装備は大量発注され、多数の特殊砲兵群、そして軽戦車連隊が次々と誕生した。1917年6月には、2C超重戦車150両、中戦車600両、そしてなんとFT-17軽戦車3500両もの製造命令が産業界に出されている。大戦を通じて、15両編成のシュナイダーCA1群が17個、サン=シャモン群が12個、軽戦車連隊が3個創設され、それらの活躍は連合軍の勝利に決定的な寄与を果たした。
1918年8月2日、エスティエンヌはレジオン・ドヌール勲章コマンドゥール(勲三等)に叙せられた。ペタンによる叙勲辞はこう記している。
「並外れた知性と勇気を備えた将官。その正確にして豊穣な思想、それを擁護し勝利へと導いた情熱と信念をもって、共同の大義に最も卓越した貢献を果たした」
戦後の活動と晩年
1918年12月23日、エスティエンヌは師団将軍(少将)に昇進した。1919年にはアルプ=マリティーム要塞群の上級指揮官およびニース分区司令官に就任している。
彼の軍歴における最後の要職は、戦闘戦車監察官であった。1920年に特殊砲兵が歩兵に移管されて「戦闘戦車」部門となった後も、その頂点に立ち続けた。1922年11月7日に一旦退役するが、直後に新設された戦車研究総局の長に迎えられている。また、1920年2月15日に国立工芸院で、続いてブリュッセルでアルベール1世国王の御前で行った講演では、戦車の将来について驚くほど先見的なビジョンを語っている。
「諸君、想像してみてほしい。10万人の兵力が武装と輜重を携え、一晩で80キロを任意の時刻に任意の一方向へ移動できれば、過去の重装備の大軍に対して、どれほど恐るべき戦略的・戦術的優位が得られるか。それに必要なのは、8000台のトラックないし自動牽引車と、2万人の精鋭部隊が乗る4000台の装軌式戦車だけなのである」
1933年、コート・ダジュールのニースに隠退した後も、戦車退役軍人協会の活動などに尽力を惜しまなかった。1934年にはレジオン・ドヌール勲章グランクロワ(勲一等)を授与されている。
1936年4月2日、パリのヴァル=ド=グラース病院で死去。遺体はニースのシミエ墓地に眠っている。