
IV号戦車(PzKpfw IV、Sd.Kfz.161)は、第二次世界大戦の初日から終戦の日まで一貫して生産が続けられた、ドイツ軍でただひとつの戦車である。同時代の戦車でこれほど長く生産され続けた例は、ソ連のT-34を除けばほとんど存在しないと言えるだろう。
基本諸元(PzKpfw IV Ausf.D)
| 国名 | ドイツ |
| 分類 | 中戦車 |
| 乗員 | 5名 |
| 武装 | 7.5cm KwK L/24戦車砲、7.92mm MG34機関銃(同軸1挺+車体前方1挺) |
| 装甲厚 | 最小20mm~最大90mm |
| 全長 | 5.91m |
| 全幅 | 2.92m |
| 全高 | 2.59m |
| 戦闘重量 | 19.7t |
| 接地圧 | 0.75kg/cm² |
| パワーウェイトレシオ | 約15.5hp/t |
| エンジン | マイバッハHL120TRM V型12気筒ガソリンエンジン(3,000rpmで300hp) |
走行性能
| 路上最高速度 | 40km/h |
| 路外最高速度 | 20km/h |
| 航続距離 | 200km |
| 越堤能力 | 0.6m |
| 超壕幅 | 2.3m |
| 涉水深度 | 0.8m |
| 登坂能力 | 30% |
運用期間は、ドイツ軍では1930年代後半から1945年まで。スペイン、イタリア、トルコにも供与・輸出され、最後の実戦使用は1967年の第三次中東戦争におけるシリア軍によるものである。
開発の経緯
物語は1935年に始まる。ドイツ陸軍参謀本部は、主力部隊向けに2種類の戦車を整備する方針を定めた。ひとつは高初速砲を備えて大量配備されるIII号戦車、もうひとつは大口径の榴弾を撃てる火力支援戦車である。後者の座に就いたのがIV号戦車だった。
当初から選ばれていたのは短砲身の7.5cm KwK砲であり、車両総重量は24t以内と規定された。実際のところ、要求仕様はIII号戦車ときわめて似通ったもので、両車の編制や任務の分担も細部が異なるだけだった。開発契約は複数の企業と結ばれたが、設計の洗練には比較的長い歳月が費やされ、量産配備が本格的に始まったのは1939年になってからである。この時点での成果がAusführung D(D型)であり、同型はポーランドやフランスの戦役に参加し、1941年にはロシアの広大な戦線へ投入された。しかし、そこで露呈した欠陥はもはや見過ごすことのできないレベルに達していた。
構造と乗員配置
D型の寸法はIII号戦車をやや上回ったものの、車体形状と全体のシルエットはほぼ共通していた。乗員5名は3つの区画に分かれて配置された。操縦手と無線手は車体前部に座り、車体機銃はその右側、操縦手のやや後方に設けられていた。戦闘室となる砲塔には車長、砲手、装填手が収まった。
砲塔の旋回は電動式であった点が特筆される。当時のIII号戦車が依然として手動旋回だったのとは対照的だ。砲塔後部に突き出した大型キューポラは車長に遮るもののない視界を与え、砲塔の左右側面にはそれぞれ脱出用ハッチが開けられていた。車体後部のエンジンはIII号戦車のものとほぼ同一で、補機類の配置が多少異なるだけだった。動力は変速機を介して前方の起動輪へ伝達される。
足回りは片側4基ずつのボギー台車を板バネで懸架する方式で、後部に大きな誘導輪、上部に4個の小型支持輪が組み合わされていた。車体内部は余裕があり、砲弾80発と機関銃弾2,800発を搭載することができた。
改良の歩みと各型
実戦経験はたちまちのうちに、この車両の設計と編制が優れていることを証明した。その一方で、本来の任務であるIII号戦車の支援においては他国の戦車に対する優位がほとんどなく、装甲が薄すぎることも明らかになった。そこで、終戦まで中断されることのない改良計画が始動するのである。
次のE型は車体上部と砲塔に追加装甲を施し、新型キューポラを採用した。これらの改修は既存の車両にも遡って適用されたため、写真から正確な型式を識別することはしばしば困難になっている。F型は主力戦車となるはずだったが、ほどなくして改良の余地があると判断され、長砲身版の7.5cm砲を搭載することとなった。この新兵器は車両の役割を完全に塗り替え、IV号戦車は単なる支援戦車ではなく、1941年の時点ですでにIII号戦車に代わる対戦車戦闘の担い手としての地位を獲得した。
大量生産されたF型は全戦線で戦い、直系の後継であるG型も同様に活躍した。G型は外見上、より厚い装甲と車体側面の装甲スカート(シュルツェン)の出現によって識別できる。
1943年、IV号戦車は7.5cm KwK 40 L/48砲の採用によって若返りを遂げた。この砲により、世界のどの戦車にも対抗できるようになり、T-34との一対一の決闘でも対等に渡り合う地位を確立したのである。
より強力な火砲への換装は当然ながら砲塔にも影響を及ぼした。G型以降の砲塔は追加装甲によって後部が大きく延長され、戦車全体のシルエットはがっしりとした、正直に言えばやや不均衡な外観へと変わっていった。最終生産型のJ型(Ausf.J)は1944年に登場した。この頃には資材不足が深刻化しており、設計は簡素化を余儀なくされたが、車両の本質は開戦から5年前の姿のまま保たれていた。

実績と評価
1945年までに8,000両以上が完成し、特定の任務向けの派生型も多数建造された。一部のIV号戦車は1967年の第三次中東戦争(アラブ・イスラエル戦争)においてシリア軍によって現役で運用され続けており、その優れた信頼性と実績を物語っている。開発から終戦まで絶え間ない改良を受け入れ、あらゆる戦場で第一線に立ち続けたIV号戦車は、「ドイツ装甲師団の働き者」と呼ぶにふさわしい存在なのである。