地中海中央、シチリアとチュニジアの間に位置するマルタ島は、その戦略的重要性から「ロンメルの悪夢」と呼ばれました。第二次世界大戦中、この小さな島は北アフリカ戦線の帰趨を左右する決定的な拠点となり、枢軸国と連合国の熾烈な攻防の舞台となったのです。
包囲戦の幕開け
包囲戦は、イタリアが崩壊しつつあったフランスとイギリスに宣戦布告したことで始まりました。イギリスは早くも1939年にレーダーを設置しており、ファシズム勢力の脅威から島を守るべく、グロスター グラディエーター複葉機3機――「フェイス(Faith)」「ホープ(Hope)」「チャリティ(Charity)」――を配備していました。やがて空襲が始まると、かつての隣国イタリアへの親善ムードは瞬く間に消え去りました。
偵察拠点としてのマルタ
マルタ島はイギリス情報部の活動拠点として活用され、1940年11月のタラント湾攻撃の準備においても、偵察機による情報収集の前線基地として重要な役割を果たしました。
新たな敵――ナチス・ドイツの参戦
1941年には、新たな敵がこの島に牙をむきます。ハーケンクロイツ(ナチス・ドイツ)です。アフリカ戦線で苦境に立たされたイタリアを支援するため、ロンメル率いるアフリカ軍団が派遣され、戦況は一変しました。
しかし枢軸国の補給体制には厄介な障害物がありました。マルタ島を強化するイギリス軍が、敵の輸送船団に効果的な打撃を与え続けていたのです(ピエール・クロステルマン著『空からの火』参照)。これに対し、島への爆撃は激化の一途をたどりました。イギリス側も島の戦闘機数を増強し、イギリス空軍(RAF)のパイロットたちは基地施設を死守すべく奮戦しました。一方、島への補給は劣悪な条件下での強行を余儀なくされました。
ペデスタル作戦(1942年)
1942年8月のペデスタル作戦では、約800機の独伊航空部隊が輸送船団に猛攻撃を加えました。空母イーグルはUボートの雷撃により沈没。出発した十数隻のうち、島にたどり着けたのはわずか5隻ほどでした。その中には、甚大な損傷を受けながらも爆撃の中を港まで曳航されたタンカーが含まれていました。防空戦闘機や爆撃機にとって燃料こそが生命線だったからです。
屈せざる民の名誉
枢軸国は延べ1,700回を超える空襲を行い(バトル・オブ・ブリテン全体よりも多くの爆弾がこの島に投下されました)、それでもマルタの民を屈服させることはできませんでした。島民の勇気と不屈の精神を讃えるため、1942年4月、国王ジョージ6世はマルタ要塞の住民に対してジョージ十字章を授与したのです。
包囲の終焉
1943年、ロンメル軍がチュニジアから撤退し、イタリアが衰退して降伏すると、マルタの人々は3年間にわたり自らを脅かし続けたイタリア艦隊が、ついにその戦力を失うのを目の当たりにしました。
おわりに
飢餓と爆撃、侵略の危険、そして数多くの脅威に耐え抜いたマルタの人々に、心からの敬意を捧げます。彼らは今もなお、地中海の中心にあり、歴史の表舞台であり続けた島の伝統を受け継いでいます。