古代の歴史

圧倒的な物量で挑んだエニウェトク攻略戦――「キャッチポール作戦」の全貌

圧倒的な物量で挑んだエニウェトク攻略戦――「キャッチポール作戦」の全貌

フリントロック作戦の成功から始まった次の一手

「フリントロック作戦」の成功を受け、アメリカ軍は中部太平洋における作戦計画を一段と推し進めることとなった。リッチモンド・K・ターナー提督は、1944年2月17日にエニウェトク環礁への攻撃を実施することを決断する。これが「キャッチポール作戦」と呼ばれる一連の戦いである。

攻略目標は環礁40島のうちのわずか3島

主な攻略目標は、環礁を構成する約40の島々の中から選ばれた3島だった。すなわち、北部のエンゲビ島、そして南部のエニウェトク島とパリー島である。

守備していた日本軍は約3,500名。塹壕や地下掩体を増設して防御を固めていたものの、コンクリート製の恒久施設を持たない、比較的脆弱な陣地であった。

「贅沢な手段」によるクェゼリンの再来

キャッチポール作戦は、まさに「贅沢な手段」によって実行された。第5艦隊の艦艇による支援部隊を別にしても、2個強襲連隊という大規模な戦力が投入されたのである。これは、わずか1週間前に成功を収めたクェゼリン攻略戦の再演と言うべきものであった。

すでに実証済みの戦術が用いられた。まず艦船群が東西約30キロ、南北約35キロに及ぶ広大なラグーン内に侵入し、事前の艦砲射撃と空爆を加える。続いて強襲部隊が周辺の小島を相次いで占領し、そこに強力な砲兵陣地を構築。こうして築き上げた圧倒的な火力支援のもと、本格的な上陸作戦が展開されたのである。

わずか6日間で環礁を完全制圧

その成果は劇的だった。圧倒的な火力支援のおかげで、北部の要衝エンゲビ島は2月18日、わずか数時間で占領されてしまう。翌19日にはエニウェトク島への攻撃が開始され、同島での日本軍の抵抗は21日の夜には完全に沈黙した。

そして2月22日、海兵隊は最後の拠点であるパリー島を制圧。ここにエニウェトク環礁全域がアメリカ軍の手に落ちたのである。

クェゼリンをも上回る戦果

この戦いの結果は、クェゼリンにおけるそれよりもさらに一方的なものであった。約3,400名の日本軍将兵が地上に残ったが、捕虜となったのはごくわずかで、そのほとんどが朝鮮人労働者だったという。一方、アメリカ側の海兵隊および陸軍の損害は、戦死約350名、負傷約850名にとどまった。

ギルバート・マーシャル諸島戦役の総括

こうしてギルバート諸島およびマーシャル諸島をめぐる戦役は、疑いようのないアメリカ軍の勝利に終わった。この戦いがもたらした意義は大きい。

  • 戦略的拠点の確保: マジュロ、クェゼリン、エニウェトクにおいて、中部太平洋ルート経由で日本本土へ向けて進撃を続けるための優れた海軍航空基地群を手に入れた。
  • 守備隊の無力化: マーシャル諸島に残された日本軍守備隊は、相当な兵力を擁していながらも補給を絶たれ、終戦まで完全に封じ込められることとなった。
  • トラック島の威信失墜: 航空戦力が著しく限られていた日本海軍の大根拠地トラック島は、アメリカ軍の行動に対抗できなかった。「不沈空母」と呼ばれ、侵されることのないはずだった日本海軍の聖域は、もはや安全な場所ではなくなったのである。

トラック島空襲――第58任務部隊の猛威

実際、2月17日には第58任務部隊の艦載機部隊がトラック島に対して極めて激烈な空襲を敢行した。この攻撃で日本軍は約260機の航空機を失い、重巡洋艦2隻、特設巡洋艦3隻、駆逐艦4隻、輸送船19隻、タンカー5隻が行動不能となる大打撃を被った。

古賀峯一連合艦隊司令長官が、この攻撃より前の時点で艦隊の主力を西方へ退避させていなければ、損失はさらに甚大なものになっていたであろうとされている。

日本の防衛圏に開かれた最初の突破口

こうして1944年2月、アメリカ軍は日本が掲げた絶対国防圏に初めて大きな突破口を開くことに成功したのである。太平洋の戦局は大きく傾き、終戦の日が数年後ではなく、もう少し先の未来へと近づいているかに見えた。