古代の歴史

デビッド・スターリング――英国特殊部隊SASを創設した伝説の軍人の生涯

デビッド・スターリング――英国特殊部隊SASを創設した伝説の軍人の生涯

アーチボルド・デビッド・スターリング大佐(1915年11月15日、スコットランド・パースシャー州生まれ~1990年11月4日没)は、スコットランドの名門出身のイギリス陸軍将校であり、第二次世界大戦中に伝説的な特殊部隊「SAS(特別空挺部隊)」を創設した人物として広く知られています。

名門の生まれと破天荒な学生時代

スターリング家はスコットランド中部のキア村を出自とする名家です。父は第一次世界大戦で准将を務め、母は有名なラヴァト氏族の出身でした。

イングランド・ヨークシャー州のアンプルフォース校で学んだ後、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学します。しかし、勉強よりも大学外の社交やスポーツに魅了されていた彼は、規律違反により23回もの訓戒を受け、わずか1年で退学処分となってしまいました。

軍隊入隊からSAS創設へ

アンプルフォース校士官候補生隊の出身者として、1937年7月24日にスコッツガーズ(近衛歩兵連隊)の予備少尉に任官。1938年夏にはカナダへ渡り、大西洋から太平洋まで横断しながら、様々な仕事で生計を立てつつ、道中で出会った山々の登攀訓練に励みました。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発した当時、彼はエベレスト登頂に向けた訓練を行っていました。その後、1940年6月にイングランドで編成された第8コマンドー部隊に加わり、1941年5月にはロードス島での戦闘に参加。続いて北アフリカの「レイフォース(Layforce)」に合流します。

1941年6月にレイフォースが解散すると、臨時大尉の階級にあったスターリングは、ジョック・リューズと共に同年7月、「L分遣隊(SAS旅団)」を創設。レイフォースから将校6名と下士官兵60名を引き抜きました。エジプトのカブリット・キャンプでは、教官の助けを借りることなく独自の革新的な手法で、8月から9月にかけて新兵の集中訓練を実施しています。

しかし、1941年10月4日に実施された初の空挺作戦は失敗に終わりました。強風と豪雨の中で敵陣後方に降下した結果、60名のうち基地に帰還できたのはわずか22名でした。

地上からの襲撃戦術への転換

この失敗から、スターリングはコマンドー作戦の多くは、可能な限り空輸ではなく陸路で実施すべきだと結論づけます。以後、SASは1940年7月にラルフ・バグノールド中佐(1896~1990年、1941年にOBE受章)が創設した「長距離砂漠グループ(LRDG)」と連携して行動するようになりました。

SASは、ヴィッカース連装機関銃を搭載したジープを駆使し、特にドイツ軍の飛行場に対して電撃的かつ破壊的な襲撃を繰り返しました。

「ファントム・メジャー」と呼ばれた英雄

スターリング中尉は1942年2月24日に殊功勲章(DSO)を授与され、さらに同年6月30日には中東での作戦に関して再び賞賛されました。彼はほどなくして少佐に昇進し、「ファントム・メジャー(幽霊少佐)」というあだ名で呼ばれるようになります。その後、臨時中佐に任命され、第1SAS連隊の指揮を執りました。

自ら数々の作戦を指揮した後、1943年1月にチュニジアでの襲撃作戦中にドイツ軍の捕虜となります。4回の脱走を試みた末、コルディッツ城要塞に収監され、1945年まで解放されませんでした。

戦後の栄誉と王室との関わり

臨時中佐として、1946年11月14日に戦場での勇敢さを讃えられ大英帝国勲章(OBE)を受章。1948年5月には予備役大尉(1947年7月27日付)に任官し、名誉中佐の階級を授与されます。1952年2月には予備役少佐(1947年11月1日付)に任命され、1965年11月15日に少佐の階級で予備役を退役しました。

戦後もスターリングはイギリス情報機関や王室と密接な関係を保ちました。1953年6月2日のエリザベス王女(後のエリザベス2世)の戴冠式では、王室が指名する警備責任者「ゴールドスティック」の役割を務めています。

イエメン内戦への介入

1963年、スターリングはビリー・マクリーンらスコットランド保守派の人脈の協力を得て、1962年9月に君主を追放した親エジプト政権に対抗して蜂起したイエメン王党派部族への軍事支援作戦を立案します。しかしこの作戦は、エジプト軍の圧倒的な数的優位(5万人)と、イギリスのアデン保護領からの撤退により、1967年に失敗に終わりました。

現地での主要な実行者は、1941年から1960年までSASに所属していた友人のジョン「ジョニー」マードック・クーパー中佐(1922~2002年)で、フランス人傭兵のロジェ・フォルク司令官やボブ・デナールもこれに加わりました。スターリングのテレビ会社「テレビジョン・インターナショナル・エンタープライズズ(TIE)」は、SAS要員の雇用におけるMI6(英国秘密情報部)の偽装企業として機能しました。

傭兵会社ウォッチガード・インターナショナルの設立

1966年、スターリングは元SAS隊員を雇用する会社「ウォッチガード・インターナショナル」を設立します。この傭兵会社は、中東、アフリカ、ラテンアメリカ、東南アジア諸国の政府特殊部隊の訓練・監督や、反政府勢力に対する作戦の組織化を担当し、イギリス秘密情報部のためにも働きました。南イエメンでは、王党派勢力にSAS隊員を派遣して支援しています。

カダフィ政権転覆計画の失敗

1970年7月、スターリングはMI6と共に、1969年9月にリビアで権力を握ったカダフィ大佐を打倒する軍事作戦の準備を開始します。しかし、この計画の機密保持が不十分だったことからアメリカ合衆国が反対し、作戦は1971年3月に失敗しました。

晩年の活動

1970年代初頭に同社を離れたスターリングは、イギリスの憲法改革を提唱する政治ロビーグループ「より良い英国協会(Better Britain Society)」のメンバーとなります。1983年には、エディンバラ公フィリップ王子が創設した世界野生生物基金(WWF)の支援を受けて、「KAS(Kilo Alpha Services)」社を設立。同社は第23SAS連隊の元指揮官であるイアン・クルーク中佐が率いました。

KAS社は公式には南アフリカでの密猟対策を目的としていましたが、イギリス秘密情報部のために活動し、ネルソン・マンデラ率いるアフリカ民族会議(ANC)と闘う、マンゴスツ・ブテレレジ率いるインカタのズールー人を支援していました。

晩年と死後

スターリングは1990年、死去の数ヶ月前にナイト爵(ナイト・バチェラー)を授与されました。彼の生家であるキア・ハウスの近くには、ダッフルコートと制帽を身につけた姿のブロンズ像が建立されています。

主な受章歴

  • ナイト・バチェラー(1990年、「サー」の称号)
  • 殊功勲章コンパニオン(DSO、1942年)
  • 大英帝国勲章オフィサー(OBE、1946年)
  • 二度の賞詞(1942年)
  • レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ(フランス)