嘉永6年(1853年)のペリー来航以降、相次いで外国船が日本へ押し寄せました。さらに清国がアヘン戦争やアロー戦争(第二次アヘン戦争)で敗北したという衝撃的なニュースは、日本の外交姿勢を根本から変える出来事となりました。
幕末の政局は、公武合体路線を軸に、開国を進める幕府(開国派)と、鎖国の継続と外国排斥を掲げる朝廷(攘夷派)との対立として展開していきます。
尊王攘夷論のはじまり
そもそも「尊王攘夷」は、「尊王=王(天皇)を尊ぶ」という思想と、「攘夷=夷(異国人)を斥け追い払う」という思想が、それぞれ独立した形で存在していたものです。尊王論は朱子学を基盤とし、攘夷論はそれとは別個に成立していました。
長州藩・土佐藩・薩摩藩などに支援された多くの国学者たちによって説かれた「尊王攘夷論」は、全国の藩校で教えられていた「水戸学」にその源流があります。水戸学は18世紀末から江戸時代末期にかけて、内憂外患による国家の危機をいかに克服するかという課題について、独自の視点から主張を展開しました。
その思想を理論的に発展させたのが藤田東湖です。
東湖は水戸藩主・徳川斉昭から藩政改革を任され、次第に幕政にも関与するようになりました。伝統的な天皇の権威を背景に、幕府を中心とした国家体制を強化することで、諸外国からの独立と安全を確保しようとする尊王攘夷思想のもとで活躍したのです。
しかし、徳川斉昭が将軍継嗣問題で井伊直弼との争いに敗れると、事態は一変します。直弼は天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印しました。これに激怒した孝明天皇は、幕府を通さず直接水戸藩へ、天皇の意志を記した文書である戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を下します。これがいわゆる「戊午の密勅事件」です。
この事件により幕府の権威は大きく揺らいだのです。直弼は尊王派に対し、安政の大獄と呼ばれる大弾圧を開始します。これに憤慨した水戸藩の下級武士たちは脱藩して浪人となり、薩摩藩の志士たちと密かに連携を結び、ついに桜田門外の変が起こりました。
吉田松陰と安政の大獄
井伊直弼による安政の大獄で処刑された人々の中には、長州藩から多くの尊王論者を輩出した松下村塾の主宰者・吉田松陰がいました。松陰は身分を問わず塾生を受け入れ、高杉晋作や久坂玄瑞、吉田稔麿や入江九一など、幕末の動乱に関わる多くの人材がこの塾の門を叩いたといわれています。
吉田松陰は、在野の意欲ある武士の台頭こそを日本変革の原動力とする「草莽崛起論」を提唱しました。「草莽」とは草木の茂みに潜む隠者、すなわち一般民衆を指し、「崛起」は一斉に立ち上がることを意味します。
松陰は松下村塾の塾生たちに対し、机上の学問よりも実践的な行動を求めました。幕末の重要なキーパーソンを多数輩出できたのは、この徹底した実践思考の賜物だったといえるでしょう。現在の松下村塾の建物は、山口県萩市の松陰神社境内に移築され、大切に保存されています。
松陰自身は、日米修好通商条約が天皇の使者なしで調印されたことを批判し、自らの教えを実践すべく老中暗殺計画を企てたため、幕府に捕らえられ死刑を宣告されました。しかし松陰の死後、高杉晋作ら塾生たちはその遺志を受け継ぎ、長州藩の藩論を尊王攘夷へと転換させ、実際に攘夷を実行へと移していきます。
また、これに呼応するように土佐藩でも武市半平太を盟主とする土佐勤王党が結成され、坂本龍馬や中岡慎太郎らとともに「草莽の志士」と呼ばれる存在が現れました。彼らは開国派の重鎮である吉田東洋の暗殺に成功して土佐藩の藩論を尊王攘夷へと転換させると、京都へ上洛し、尊王運動に参加していったのです。
従来、尊王攘夷を主張していたのは、主に雄藩の家臣・浪人・学者といった限られた層でした。しかし安政の大獄以降は、豪農・豪商出身者を含む幅広い人々が、身分や立場を超えて同じ目的のために立ち上がるようになり、運動は次第に過激な色彩を強めていきました。
井伊直弼による安政の大獄は、幕府権力の強化を狙ったものでしたが、結果的には幕府への規範意識の低下と人材の欠如を招き、尊王攘夷運動をかえって激化させることとなりました。こうして幕末の政局は、ますます倒幕へと傾いていくことになるのです。