古代の歴史

18~19世紀に外国船が頻繁に来航した理由【アメリカ】

アメリカ船の度重なる来航は捕鯨ブームだという見方もありますが、背景をよく見てみると捕鯨以外にも理由がありそうです。

ということで、「18~19世紀に外国船が頻繁に来た理由を見てみよう」の第3弾、アメリカ編の始まりです。

アメリカの転換点

現在のアメリカである土地のほとんどは、大航海時代からイギリス、フランス、スペインによって植民地化されてきましたが、イギリスとフランスの覇権争いに地元インディアンを巻き込んだ戦争(=七年戦争)に発展しました。 。イギリスが勝利し、北米の多くのフランス植民地はイギリス領土となります。

しかしイギリスでは広大な土地の植民地経営と対フランス戦費により財政が悪化。植民地支配を強めることで生き残ろうとする中で反発が生まれる。

こうして アメリカ独立戦争 が起こったのです。 1775年から1783年にかけて起こった出来事です。ご存知の通り、結果はアメリカの勝利です。

アメリカの勝利は、イギリスの邪魔をしていたフランスとスペインの軍事支援と、ロシアが他のヨーロッパ諸国に対して武装中立を保ったことが大きかったようです。

米国ではヌーの大群に対処するために銃の性能を向上させる工夫があったとされ、それも英国に対する勝利に貢献したとされる。

その後はアメリカ国内の統一に向けた準備に忙しく(1785~1795年、イギリスの二枚舌により北西インディアン戦争が勃発)、18世紀には海外へ出た(武力が必要)。交渉には大きなリスクがあったと推測します。

今、そのような国の姿を着々と準備している間に、ヨーロッパにも変化が起こります。それがこの人の姿です。

ナポレオンの登場

実際、ナポレオンやヨーロッパだけでなく、アメリカにも大きな影響を与えています。その一つが フランスによるルイジアナ売却 です。 は。

アメリカが独立したとき、ヨーロッパ列強は西に隣接していました。注目に値するのは、北米で最も重要な交通拠点の 1 つであるミシシッピ川です。独立13州には支流がありましたが、スペイン領であるルイジアナ州に支流が多かったことがアメリカの国防にとって大きな負担となっていたようです。

この時点ではルイジアナはフランスではありません。もちろんフランス領となった後もスペインとフランスの交流はあったのですが、その交流を見てみましょう。

ルイジアナ州がフランス領になった理由

七年戦争後、アメリカ北部に住んでいた多くのフランス語話者がイギリスの支配下にあったためルイジアナに強制移住させられました。スペイン側もカトリック移民を歓迎し、概ね好意的に受け入れていたという。

そうした中、スペインの財政はアメリカの植民地経営によって圧迫され、また東から来るアメリカ移民との軋轢により植民地を維持するメリットが薄れてきているようです。は。

そこで 1800 年の条約が調印されました。公表はされていないが、ルイジアナ州をフランスに引き渡すことが正式に決定した。ナポレオンは受け取ったルイジアナをアメリカに売却した。

ルイジアナ州があることで、以前よりも米国での維持がはるかに容易になります。陸上に大国が存在することは新興国にとって大きな負担となった。

欧州混乱時の米国の状況

1803 年、フランスとイギリスを含む他のヨーロッパ諸国との間でナポレオン戦争が勃発しました。米国は中立の立場を取ることを決定したが、これは両国のスケールに触れ、結局海上封鎖を食らう結果となった。

当時の米国は農産物や原材料の欧州への輸出に依存しており、大きな打撃となった。

同年7月にアメリカ船が長崎に来航し、貿易を求めたのは偶然ではない。 1803 年の時点で、幕府は貿易を拒否し、その後貿易目的 (試みを含む) での訪問は 1830 年以降まで中止されます。

正直に言うと、捕鯨の影響は 1830 年以降に完全に大きくなります。結局のところ、捕鯨の全盛期は 1830 年から 1860 年とほぼ一致します。

同時に、 アメリカのモンロー主義も 1823年にヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を示した。これも外交の基本方針の要因だったと考えられる(当時アラスカにはロシア領があったため、南下に対する牽制の意味もあった)ポリシー)。

つまり、「アメリカ大陸への干渉はアメリカと喧嘩したとみなす」という宣言なので、当時の先進国やヨーロッパ諸国に対処するには、ある程度の武力と豊富な兵力が必要でした。サポート。なる。ヨーロッパが敵になる可能性があるため、他の地域と協力する必要があったと推測できる。

幕末あたりから世界史を学んで初めてわかることもあるので、今後も世界史を少しずつ取り上げていきたいと思います。