古代の歴史

ナチス・ドイツの「最終的解決」――ホロコーストへの道とヴァンゼー会議

ユダヤ人に対する虐殺は、1939年9月にドイツがポーランドへ侵攻した際にすでに行われていました。1940年にはユダヤ人を隔離するためのゲットー(隔離居住区)が各地に設置され、なかでもワルシャワ・ゲットーが最もよく知られています。さらに1941年以降、占領地域のユダヤ人たちは黄色い星(ダビデの星)を身につけることを強制されるようになりました。

1941年、ドイツの特別行動隊(アインザッツグルッペン)が、ナチス・ドイツによる組織的な絶滅、すなわちホロコーストの第一段階を実行に移します。彼らはユダヤ人、ロマ(シンティ・ロマ)、障害者、さらにはソ連軍捕虜までを、大量射殺という手法で排除しました。この時期の虐殺は「銃弾によるホロコースト」と呼ばれています。その後、移動式ガス車も使用されるようになりました。

しかし、こうした行為がドイツ兵に与える深刻な心理的負担や、方法としての限界を前に、ナチスはより大規模な絶滅に適した新たな手段を模索するようになります。

1942年

ナチス・ドイツの「最終的解決」――ホロコーストへの道とヴァンゼー会議

登場人物

  • アドルフ・ヒトラー
  • ハインリヒ・ヒムラー
  • ラインハルト・ハイドリヒ
  • アルベルト・シュペーア

経緯

虐殺自体は1939年から行われていましたが、「最終的解決」、すなわちユダヤ人の完全な絶滅へと方針が大きく転換したのは、1942年1月20日のヴァンゼー会議においてです。実はヒトラーはそれに先立つ1941年夏の時点で、ドイツ支配下の全領域におけるユダヤ人の抹殺をすでに決定していました。その実現を担ったのが、親衛隊(SS)将校でありゲシュタポ長官でもあったラインハルト・ハイドリヒです。「銃弾によるホロコースト」の限界を克服する手段の構築が彼に託されました。同時に、東部戦線の戦況の変化により、ユダヤ人をドイツの生存圏から遠く離れた東方へ移送するだけでは対応できなくなっていたことも、方針転換の一因となりました。

ハイドリヒはナチス政権の主要指導者、各省庁の責任者、さらにSSやゲシュタポの幹部を招集し、「ユダヤ人問題の最終的解決」を協議しました。つまり、ユダヤ人の絶滅は国家の最高レベルで正式に決定され、その対象は最終的にヨーロッパ全土へと拡大されたのです。この会議は、大規模絶滅手法に関する共通認識の形成と合理化をもたらし、大量虐殺が官僚機構によって組織的かつ計画的に実行されたことの象徴として歴史に刻まれています。

1942年はまた、ヨーロッパ各地でユダヤ人の大規模な人口調査(登録)が実施された年でもありました。これらの情報は同年夏以降の逮捕と強制移送に利用され、取り締まりと追放が急速に拡大していきました。フランスでは7月16日から17日にかけて「ヴェロドローム・ディヴェール一斉検挙(通称ヴェル・ディヴ)」が行われ、オランダでも1942年夏にユダヤ人の逮捕と強制移送が相次ぎました。

結果

  • ガスを使った絶滅収容所が、ナチスにとって最も効率的な解決策となりました。
  • 強制労働も広く行われました。戦争遂行のための労働力確保を目的に、産業施設が収容所内へ展開され、労働条件は劣悪を極めました。
  • 第二次世界大戦中、約600万人のユダヤ人が絶滅収容所などで命を奪われたと推定されています。さらに、ロマ(シンティ・ロマ)や同性愛者など、ナチスによって「望ましくない」とみなされた集団約50万人も、収容所で処刑されました。