恐怖政治への道
フランス革命は旧体制を一掃するとともに、王党派に対する本格的な弾圧という「魔女狩り」をも引き起こした。1793年1月21日、山岳派は国王ルイ16世を断頭台へと送った。その約2か月後には「革命裁判所」と呼ばれる特別刑事裁判所が設立され、さらに3月21日には、一般保安委員会の管轄下に置かれた監視委員会が各地に設置され、恐怖政治への道が開かれていった。
経済的・社会的・政治的に不安定な情勢を背景に、1793年9月5日、恐怖政治は正式に宣言される。クートン、サン=ジュスト、ロベスピエールらが率いる公安委員会は、同年9月17日に「容疑者法」を制定し、「自由に対して何も行わなかった者だけでなく、自由のために何もしなかった者」までも処罰対象とした。彼らの権力は絶対であり、裁判は極めて迅速に執り行われ、処刑は加速度的に増加していった。
ロベスピエールは恐怖政治の体現者となり、1794年6月10日の法令(プレリアール22日法)によってそれを頂点へと押し進めた。この法令のもとでは、容疑者は理由がなくても逮捕でき、弁護の権利を奪われた被告人の運命はパリ革命裁判所に一任された。同裁判所に与えられた選択肢は「無罪」か「死刑」の二つのみであった。しかし、共和暦2年テルミドール9日(1794年7月27日)、あまりに独裁的だとみなされた公安委員会と一般保安委員会との間で内紛が勃発する。

主要な登場人物
- ポール・バラス
- ジョゼフ・カンボン
- ジョルジュ・クートン
- フランソワ・アンリオ
- フィリップ・ルバ
- ルイ・ルーシェ
- マクシミリアン・ロベスピエール
- オーギュスト・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール(通称:ロベスピエール弟)
- アントワーヌ・サン=ジュスト
処刑までの経緯
1794年7月26日、国民公会の演壇に立ったロベスピエールは、「腐敗した者たち」を糾弾する演説を行った。コロー・デルボワ、ビヨー=ヴァレンヌ、バラス、フレロンら議員が特に標的となり、危機感を抱いた。翌日、議員たちはロベスピエールの演説の一言一句に対して「暴君を倒せ!」と叫び、彼の発言を封じ込めようとした。
そこで議員カンボンが公然とロベスピエールの弾劾に踏み切り、続いてルーシェ議員が逮捕令を提案すると、議場は挙手投票によりこれを可決した。こうしてロベスピエールは、弟のオーギュスタン、クートン、サン=ジュスト、ルバらとともに逮捕され、投獄された。
アンリオ将軍はパリ・コミューンに蜂起を呼びかけ、数十名の兵士とともにロベスピエールら囚人の脱獄を試みた。反乱側と国民公会側(兵士はバラス議員らが指揮)との対決は市庁舎で発生した。混乱の中、ロベスピエールは顎に銃弾を受けた――自ら撃ったのか、他者の発砲によるものなのかは、今日なお定かではない。
翌日、1794年7月28日(共和暦2年テルミドール10日)、ロベスピエールはついに断頭台へと送られ、恐怖政治の終焉とともにその生涯を閉じた。パリの街路には歓喜が爆発し、抑圧されていたあらゆる自由と享楽が一気に解き放たれたかのように、人々は沸き立ったのである。
処刑後の歴史的影響
革命の理想、そして革命が掲げてきた自由の旗印を忘れ去った恐怖政治は、まさに実質的な独裁政治であった。ロベスピエールの死は、この暗黒の時代の幕引きとなった。
その後、国民公会は共和暦3年憲法を制定する。普通男子選挙権は廃止され、納税額に応じた制限選挙(セルタ制)が復活した。立法権は二つの院に分割され、どちらの院も他方に対して優越権を持たない均衡構造が採られた。さらに、五百人会が推薦し、元老会が選出する5人の総裁が行政権を担う合議制政府――すなわち「総裁政府(ディレクトワール)」が誕生したのである。