古代の歴史

1851年12月2日のクーデター:ナポレオン3世はいかにして皇帝となったか

フランス革命から第二共和政へ――激動の時代背景

フランス革命は、フランスを長きにわたる混乱と政治的不安定へと突き落としました。恐怖政治の後、総裁政府は権威を確立できず、この脆さがナポレオン・ボナパルトによる「ブリュメール18日のクーデター」を可能にし、やがて帝政が宣言されます。しかし、数々の征服と栄光を極めた皇帝も、各国の対仏大同盟には屈し、セントヘレナ島へ流刑となりました。

その後、ルイ18世が立憲君主制を復活させます。ところがナポレオンが脱走して帰還すると、国王は都落ちを余儀なくされました。ワーテルローの戦い(1815年)の敗北により、「百日天下」と呼ばれた帝国の復活は幕を閉じます。再び王座に戻ったルイ18世でしたが、その権力はすでに弱体化していました。

ルイ18世の死後、従弟のシャルル10世が即位します。彼は強硬な王党派で、先王よりもはるかに穏健さを欠いていました。出版の自由など獲得したばかりの自由を弾圧した結果、1830年7月27日から29日の三日間、「栄光の三日間(トロワ・グロリウーズ)」と呼ばれる反乱が勃発。国王の権限を定めた憲章を踏みにじった報いとして、シャルル10世は退位し、亡命へ追い込まれたのです。

そこで白羽の矢が立てられたのが、シャルル10世の従弟にあたるルイ・フィリップ1世です。彼は当時議員だったアドルフ・ティエールらに担がれて王位に就きました。ティエールは後に大臣、そして首相(閣僚評議会議長)へと昇りつめていく人物です。七月王政は穏健な出発を切りましたが、国王は次第に保守的な政府を周囲に置くようになります。そして、普通選挙(男子)の導入を掲げた共和派の宴会が禁止されたことが引き金となり、1848年の二月革命が起こります。当時の選挙権は納税額によって制限される「納税選挙権」であり、すべての男性に投票権を与える普通選挙を求める声は高まっていました。1848年2月、国王は退位して亡命。こうして君主制が二度とフランスの王座に戻ることはなく、第二共和政が誕生したのです。

1851年12月2日

1851年12月2日のクーデター:ナポレオン3世はいかにして皇帝となったか

登場人物

ルイ=ナポレオン・ボナパルト(通称ナポレオン3世)

アドルフ・ティエール(七月王政期の議員・大臣・首相、のちに第三共和政初代大統領)

ヴィクトル・ユゴー

クーデターの経緯

第二共和政は男子普通選挙を確立し、激動の社会情勢に応えるべく個人の自由を拡大させました。ルイ=ナポレオン・ボナパルト(1808〜1873)は、伯父ナポレオン1世の失脚後は亡命生活を送っていましたが、それでも複数の県から議員に選出され、1848年12月10日には共和国大統領に就任します。しかし第二共和政の憲法は、現職大統領の再選を禁じていました。

そこで彼は1851年7月19日、再選を可能にするための憲法改正を提案しますが、必要な票を集められませんでした。権力に留まるには、もはやクーデターしか道はなかったのです。そして12月1日夜から2日にかけて、エリゼ宮で晩餐会が開かれていたまさにその夜、ルイ=ナポレオンの側近たちは要所となる拠点を掌握し、ティエールをはじめとする一部の議員が逮捕されました。

民衆は蜂起し、弾圧は苛烈を極め、多くの反体制派が流刑に処されました。ナポレオン3世を「国家反逆罪」で告発した作家ヴィクトル・ユゴーもその一人で、ベルギー、さらに英領チャンネル諸島(ジャージー島、ガーンジー島)へと亡命しています。衝突なしに事を運べると考えていたクーデターの首謀者は、男子普通選挙による国民投票(プレビシット)で民意を問いました。その結果、1851年12月20日、ルイ=ナポレオン・ボナパルトの権力掌握は正式に承認されます。以降、彼は憲法改正を自由に行えるようになり、1852年1月14日に新憲法が公布されました。これにより帝国が復活し、第二帝政(1852〜1870)が始まり、ナポレオン3世が皇帝として即位したのです。

クーデターの影響

ナポレオン3世率いる第二帝政のもとで、フランスは約20年にわたり相対的な政治的安定を享受することになります。クーデターという強硬な手段で権力を握ったものの、その後の統治は産業革命の進展やパリの都市改造など、近代フランスの基盤を築く時代へとつながっていきました。