古代の歴史

対抗宗教改革(カトリック改革)とは?トリエント公会議とその歴史的意義

対抗宗教改革はカトリック改革とも呼ばれ、1545年に開幕したトリエント公会議で頂点に達した、カトリック教会の大規模な再編運動です。

その目的は、カトリック教会自身の内部改革を進めると同時に、神聖ローマ帝国で勢力を広げつつあったプロテスタントに対して明確な回答を示すことにありました。

カトリック改革は、社会と政治が激しく変動する時代に起こりました。封建的な世界は少しずつ姿を消し、アメリカ大陸では新たな土地が発見され、ブルジョワジーが新しい社会階層として台頭しつつありました。

同時に、人文主義(ヒューマニズム)や科学的思想は聖職者の生活様式を厳しく批判し、キリスト教の教義そのものにも疑問を投げかけました。こうした新時代にこそ、カトリック教会からの応答が求められていたのです。

こうした流れの中で、ロッテルダムのエラスムス、十字架のヨハネ、アビラのテレサ、パウロのヴァンサンらの思想家たちが登場し、権力ではなく最も困窮した人々に焦点を当てる教会を訴えました。その結果、観想修道会の大規模な改革が行われるとともに、貧しい人々の教育と救済に専念する修道会(ヴァンサン・ド・ポール会など)が次々と創設されました。

また、ヨーロッパ人のアメリカ大陸到来は、宣教を使命とする修道会の必要性をもたらしました。この点で際立つ存在が、1534年に創設されたイエズス会です。その構成員は「イエズス会士」と呼ばれました。

このように、カトリック改革は、教会の精神的・行政的な側面を見直すとともに、ルターの思想に反論することを大きな特徴としました。そしてこれを実現するためには、公会議の開催が不可欠でした。

トリエント公会議

1545年から1563年にかけて、司教や神学者たちが、現在のイタリア北部に位置する都市トレント(トリエント)に集まり、公会議が開かれました。

そもそも公会議とは何でしょうか。それは、信仰に関する重大な問題が生じた際に、ローマ教皇が招集するカトリック教会の司教たちの会合のことです。

トリエント公会議には、ヨーロッパ各地からカトリック教会の代表者が集まり、正教会やプロテスタント側の神学者たちも参加しました。

公会議の特徴の一つは、マルティン・ルターによって否定された教義、すなわち聖体におけるキリストの実在、聖人崇敬、秘跡(サクラメント)の有効性、そして口伝による聖伝を改めて確認したことです。

一方で、行政面での決定も数多く下されました。司教には各自の教区への居住義務が課され、司祭を目指す者のための神学校(セミナリー)が創設され、贖宥状の販売は禁止されました。

さらに、12世紀に創設された異端審問所(通称インクイジション、宗教裁判所)が再活性化されました。この法廷は、カトリック教会の見解において異端とみなされた者を裁く機関でした。

同時に、Index Librorum Prohibitorum(禁書目録)が作成されました。これは、教会が不道徳あるいは信仰に反するとみなした書物の一覧であり、掲載された本は焼却され、著者は迫害を受け、所持者も訴追されることになりました。

ヨーロッパとアメリカの両方で要理教育(カテケーシス)を活性化させるうえで、イグナチオ・デ・ロヨラが創設したイエズス会は決定的な役割を果たしました。教育と海外宣教を通じて、カトリック信仰を広く伝えたからです。

プロテスタント宗教改革

当時のカトリック教会は信頼を失いつつあり、特にイングランド、フランス、ドイツで信徒を減らしていきました。

こうした状況の中、1517年、マルティン・ルターが「95カ条の提題」を発表します。これは公開討論のために用意された文書で、カトリック教会への批判を内容としていました。

印刷術による急速な普及と、弟子たちによる冊子の配布を通じて、この運動はキリスト教の新たな潮流――プロテスタント最初の教派であるルター派――を生み出しました。続いて1534年には、イングランド国教会(アングリカン教会)が成立します。

これらの思想は、イングランド、神聖ローマ帝国、フランス、スイス、ネーデルラント、スカンジナビア諸国へと広まり、キリスト教の在り方を永久に変えることとなりました。

カトリック改革か、対抗宗教改革か?

「対抗宗教改革」という概念は、時代とともに変化してきました。かつてこの現象は、単にルターの思想に対するカトリック教会の反撃としてのみ解釈されていました。

しかし実際には、それよりずっと前から、カトリック教会内部の多くの人々が、教会の一部の慣行の見直しを求めており、公会議の開催を望む声も複数上がっていました。

今日の歴史家たちは、この現象を単なる「対抗宗教改革」ではなく、「カトリック改革」として捉えています。なぜなら、トリエント公会議の目的は、ルターとその追随者に答えることだけではなかったからです。

こうして教皇パウルス3世はトリエント公会議を招集しました。会議は18年間に及び、史上最長の宗教会議となりました。この場で様々な教義上の問題が議論され、教皇ひいては教会全体の権威を強化することを狙った数々の決定が下されました。

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