学習上の整理のため、第一次世界大戦(1914年~1918年)は一般に以下の3つの段階に分けられます。
- 運動戦(1914年)
- 阵地戦・塹壕戦(1915年~1917年)
- 第二次運動戦/終結期(1918年)
運動戦(1914年)
開戦から最初の数ヶ月間は、前線で陣地を奪取するために部隊の機動を重視する「運動戦」の戦略が広く用いられました。
ドイツ軍は急速に進軍し、開戦後わずか数週間でパリまで50km以内に迫ります。しかし、フランス軍のジョフル将軍は、1914年の血みどろのマルヌの戦いにおいて、ドイツ軍の進撃を食い止めることに成功しました。
当時の戦術は依然として19世紀の型にはまったもので、騎兵による突撃に歩兵が随伴して攻撃を行うのが主流でした。しかしながら時代はすでに変化しており、機関銃と砲兵の援護射撃によって守られた陣地に対しては、こうした旧式の戦術はほとんど効果を発揮できませんでした。
そのため、各国の軍隊は次第に、前線全体に沿って塹壕を掘り進める方式を採用するようになっていきます。
阵地戦・塹壕戦(1915年~1917年)
戦争の第二段階は、阵地戦すなわち塹壕戦によって特徴づけられます。
敵の防衛線を突破できなかった交戦国は、一度獲得した陣地を何としても死守しようとしました。塹壕は防御のための戦略であり、当初はドイツ軍が採用しましたが、やがて連合国側もこれを用いるようになりました。
塹壕は、トンネルや溝からなる本格的な防御施設の複合体でした。そこでは数千人の兵士たちが、銃撃から身を隠しながら、数ヶ月にわたって戦い、食事をとり、眠る生活を送っていたのです。
しかしその一方で、彼らは砲弾、化学兵器、空からの攻撃に常に晒されており、加えて劣悪な環境がもたらす寒さや病気にも苦しめられました。塹壕に配属された兵士は、2週間ごとに後方の部隊と交代させられました。

塹壕の前面には杭と有刺鉄線が張り巡らされ、数百メートルの距離を隔てた敵陣との間には、荒れ果てた無人地帯が広がっていました。
このため、多くの兵士が鉄条網の前で機関銃や砲撃によって命を落としました。負傷者の救出は夜間にしか行えず、それでも極めて危険な任務だったといいます。
これは戦争全体で最も血なまぐさい時期でした。戦闘は数週間、場合によっては数ヶ月に及び、両陣営ともに甚大な犠牲を出しながら陣地の奪還と喪失を繰り返しました。にもかかわらず、いずれの交戦国も決定的な優位を築くことはできませんでした。
こうした戦況に転換をもたらしたのは、1916年にイギリス軍が実戦投入した戦車です。装甲を備えた戦車によって、初めて塹壕の防御線を突破することが可能になりました。
1917年――戦争の転換点
1917年は、戦争の歴史における重要な節目となった年です。
ロシアでは革命が勃発し、皇帝ニコライ2世とその家族は幽閉されました。成立した社会主義政権は、ドイツとの間でブレスト=リトフスク条約を締結し、戦場からの離脱を決断します。
また同年、アメリカ合衆国が連合国側に立って参戦したのもこの年です。
第二次運動戦/終結期(1918年)
アメリカの支援を得た連合国は、戦争の主導権を取り戻していきます。とはいえ、両軍が直面した戦闘は依然として熾烈を極め、双方で膨大な犠牲者が出ました。
中でも最も有名なのは第二次マルヌの戦いです。この戦いでドイツ軍はフランス領土から完全に駆逐されました。

国民のみならず自国の将校たちの支持をも失ったヴィルヘルム2世皇帝(カイザー)は、降伏条件の受け入れを余儀なくされます。ベルリンでスパルタクス団の反乱が勃発すると、カイザーは退位し、オランダへ逃れました。
そして1918年11月11日、休戦協定が調印され、4年にわたる流血の紛争にようやく終止符が打たれたのです。
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