
東欧の覇権をかけた激突
1673年11月11日、現在のウクライナにあたるホーティンの地で、ポーランド・リトアニア共和国軍とオスマン帝国軍が激突しました。17世紀のポーランド・リトアニア共和国は東欧における強大な勢力であり、オスマン帝国とは事実上絶え間なく戦争を続けていました。
1672年、スルタン・メフメト4世率いるオスマン帝国軍はポドリヤ(ウクライナ西部)のポーランド領に侵攻し、備えの不十分だったポーランド軍を打ち破りました。この屈辱的な敗北はポーランド人を奮起させ、彼らは指揮権をヤン・ソビエスキ将軍に委ねます。ソビエスキは後にポーランド王位に就き、1683年にはウィーンを救援することになる人物です。1673年、ソビエスキは約3万の兵を率いてオスマン軍に立ち向かいました。
両軍の戦力
ソビエスキが率いたのは、名高い「翼あるフサリア騎兵」12個中隊計1,690名、カラビニエーリ騎兵3個中隊342名、「パンツェルニ(装甲騎兵)」109個中隊計11,055名、ワラキア騎兵1,619名、正規歩兵8,000名、非正規歩兵500名、竜騎兵19個中隊計5,828名、そして火砲65門でした。
一方、フセイン・パシャ率いるオスマン軍もほぼ同数の兵力を擁し、火砲は120門を保有していました。オスマン軍はドニエストル川沿いに要塞化された陣営を築き、背後を大河に守りながらポーランド軍の攻撃を待ち構えていたのです。
対峙する両軍
11月10日、ポーランド軍はホーティン周辺に到着し、オスマン軍の陣地への砲撃を開始しました。オスマン軍の要塞化された陣営は半円形をしており、ポーランド軍は歩兵と砲兵を前面に展開し、騎兵を予備として温存。主力はオスマン軍陣営の南側に配置されました。
これに対してフセイン・パシャも、要塞内に歩兵と砲兵を配置し、騎兵を予備としていました。オスマン軍にはモルダヴィア人の部隊も従っていましたが、ポーランド軍の襲撃が始まる前に離脱しています。
決戦の朝
11月10日の午後、ポーランド軍は最初の攻撃を試みましたが失敗に終わり、ソビエスキは無理な追撃を避けました。しかし夜になると、彼は静かにオスマン軍の防衛線へ接近。オスマン軍はポーランド軍の動きに気づき、夜襲に備えたものの、ソビエスキは攻撃を仕掛けませんでした。
その夜は凍てつくような寒さで、やがて雪まで降り始めました。ソビエスキは一晩中、敵の防御工事を視察し、部下たちと言葉を交わして過ごしました。一方のオスマン兵たちは厳しい寒さに耐えかね、次第に塁壁から退いてテントの中に避難していきます。そして翌朝7時、ソビエスキは総攻撃を命じたのです。
ソビエスキ、先頭に立つ
ソビエスキ自身、剣を抜いて先頭に立ち、オスマン軍の陣地からわずか20メートルの地点まで進み出て、そこから攻撃を指揮しました。ポーランド歩兵と竜騎兵は塁壁上の敵を打ち倒して敵陣に突入し、同時に騎兵のための通路が切り開かれていきます。
フセイン・パシャは騎兵による反撃を命じましたが、テントが乱立する陣営内での戦闘は、たちまち混迷を極める乱戦と化しました。パニックに陥った自軍の歩兵やテントが行く手を阻み、オスマン騎兵は集中した行動を取ることができません。たちまちオスマン軍の状況は悲劇的となりました。ほぼ無傷のまま敵陣に突入したポーランド騎兵は、目の前の敵を文字通りに蹴散らしていくのです。
ドニエストル川へ続く死の橋
パニックに陥ったオスマン軍はドニエストル川の方角へ逃走を図りました。対岸の陣営とは浮き橋で結ばれていたのです。また別の部隊は陣営の北門からの脱出を試みましたが、そこにはポーランド軍の予備部隊が待ち構えており、打ち破られました。
そんな中、オスマン軍のボスニア騎兵が素早い反撃を敢行し、戦況を覆しかけます。しかし、その名に反して精鋭の重装騎兵である「翼あるフサリア」が反撃に転じ、彼らを粉砕しました。同時にリトアニア軍は橋の奪取を図り、オスマン軍の退路を断とうとします。
さらにソビエスキは砲兵を前進させ、橋への砲撃を開始しました。約5,000名のオスマン騎兵はリトアニア軍と戦いながらなんとか脱出に成功しましたが、まもなく橋はポーランド軍の砲撃によって崩落。取り残されたオスマン兵に対する虐殺が始まりました。イェニチェリ8,000名は一人残らず殺され、勇猛な騎兵たちも多数が死傷し、さらに徒歩・騎馬合わせ4,000名が命を落としたのです。
わずか2時間の決着
ポーランド軍の損害は約2,000名にとどまりました。一方、オスマン軍の損失は20,000名に達します。フセイン・パシャ本人は逃げ延びたものの、多くの高級将校が戦死しました。戦闘そのものはわずか2時間で決着。その2日後、要塞都市ホーティンは勝者ポーランド軍に降伏しました。
