古代の歴史

上ザクセン・クライス連隊――七年戦争の知られざる戦士たち

上ザクセン・クライス連隊――七年戦争の知られざる戦士たち

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神聖ローマ帝国の軍隊

1756年に七年戦争が勃発したとき、ドイツ民族の神聖ローマ帝国は、ヨーロッパで最も古い歴史を持つ政治体の一つであった。帝国軍(ライヒスアルメー)は、帝国内の小邦が供出する部隊によって構成されており、この戦争ではフリードリヒ大王率いるプロイセンに対抗してオーストリア側に立った。

かつての栄光と、それに続く衰退

帝国軍は17世紀から18世紀にかけて輝かしい戦歴を積み重ねてきた。とりわけ、名将プリンツ・オイゲン(オイゲン・フォン・ザヴォイエン)が指揮した対オスマン帝国(トルコ)戦役や、スペイン継承戦争(1701~1715年)における対仏戦では、卓越した働きを見せている。

ところがその後、帝国軍は長らく顧みられぬまま衰退していった。七年戦争の勃発時点で、帝国の諸部隊は武器や装備はもとより軍服まで欠き、全体的に戦争遂行可能な状態にはなかったのである。

クライス制と連隊の誕生

帝国軍は、ドイツを地理的に区分した「クライス(帝国行政区)」単位で編成される仕組みを採っていた。このうち上ザクセン・クライスは、数百年に及ぶ重厚な軍事伝統を誇っていた。プロイセン軍がザクセンに侵攻した際、上ザクセン・クライスは理論上3500名の兵力を動員できるはずだった。

しかし現実にはそうはならなかった。1757年春、オーストリアは各地域部隊の結成を命じた。翌1758年3月、ザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国が、プロイセン軍と戦うため665名規模の大隊を編成することに合意。残りの諸邦も第2大隊の編成に加わることを決め、ここに「ザクセン諸邦歩兵連隊」が成立した。

連隊の編制

連隊本部
第1大strong>第1大隊:銃兵4個中隊、擲弾兵1個中隊――ザクセン=ワイマール=アイゼナハ(665名)
第2大隊:
・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク 2個中隊(312名)
・ザクセン=コーブルク=マイニンゲン 1個中隊(104名)
・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト 1個中隊(84名)
・ザクセン=ヒルドブルクハウゼン 1個中隊(114名)

連隊長はフォン・ラスベルク大佐、第1大隊はフォン・リーデンツェル中佐が指揮を執った。総員1228名の連隊は、ケムニッツで36個大隊・28個中隊からなる帝国軍主力に合流し、フォン・クレーフェルト中将の師団に配属された。

七年戦争における戦歴

1759年、連隊はザクセンおよびフランケン方面の作戦に従事し、プロイセン軍によるドレスデンの包囲・奪回に関わる戦闘にも加わった。同年9月8日には、ドレスデンの包囲網を破ろうと攻勢に出たプロイセン軍との戦いに参加している。

しかしこの試みは成功せず、帝国軍は後退を余儀なくされた。1760年9月29日、連隊は第一次トルガウの戦いに参戦。以降もたびたび警備任務を担い、1762年の戦役にも従軍し、終戦をバンベルクで迎えた。

軍服と装備

兵士たちの装備は当時の標準的なものであった。頭上には黒い三角帽をかぶり、擲弾兵はプロイセン軍の擲弾兵に似たミトラ帽を着用した。上衣はプロイセン軍と同じダークブルーだが、ザクセン=コーブルク諸邦とザクセン=ゴータ=アルテンブルク出身の中隊だけは例外的に、オーストリア軍と同じ白色の上衣を着ていた。

将校は剣と曲刀(サーベル)を携行した。下士官はやや反りの強い剣と曲刀を帯び、兵卒はフリントロック式(燧発式)のマスケット銃に剣と銃剣を備え、革製のホルスターと60発分の弾丸を収める弾薬盒を身につけていた。

上ザクセン・クライス連隊――七年戦争の知られざる戦士たち

連隊のマスケット銃兵。

上ザクセン・クライス連隊――七年戦争の知られざる戦士たち

連隊の将校。

上ザクセン・クライス連隊――七年戦争の知られざる戦士たち

連隊の鼓手。