古代の歴史

フレミング艦長――ミッドウェー海戦におけるアメリカの「神風」

フレミング艦長――ミッドウェー海戦におけるアメリカの「神風」

リチャード・ユージン・フレミング大尉は、1917年に生まれました。士官学校を卒業した後は美術を学び、1939年には海兵隊予備役に入ってパイロットとしての訓練を開始します。そして1940年、操縦士として卒業を果たしました。

若きパイロット、太平洋へ

真珠湾攻撃の後、フレミングは太平洋戦線へと派遣されます。1942年6月4日、彼はミッドウェー島に配属され、海兵隊第241爆撃飛行隊(VMSB-241)に所属していました。この部隊は、ヴォート社製SB2U「ヴィンディケイター」急降下爆撃機を装備していたのです。

ミッドウェー海戦での勇戦

その日、飛行隊は日本艦隊への攻撃に出撃しました。しかし指揮官が戦死したため、フレミングが指揮を引き継ぐことになります。彼はわずか120メートルという超低空からの単独突撃を敢行し、奇跡的に生還を遂げました。

翌日もアメリカ軍機は再び空へ上がります。フレミングは日本海軍の重巡洋艦「三隈」を発見すると、ただちに攻撃を仕掛けました。

「三隈」への最後の突撃

極めて低い高度で突入したものの、投下された爆弾は日本艦の至近距離で炸裂し、損害を与えるにとどまりました。フレミングの機体は対空砲火を受けて海面に激突し、彼と機銃手のジョージ・アルバート・トムズは戦死しました。なお、フレミングは後に名誉勲章を追贈されています。

謎に包まれた最期――日米で異なる証言

ところが、この二人のアメリカ人将兵の最期については、アメリカ側・日本側双方の目撃者によって異なる証言が残されているのです。それらの証言によれば、フレミングは爆弾で重巡に命中弾を与えた後、被弾した自機ごと敵艦の主砲塔へ体当たりを敢行したのだといいます。沈没直前の「三隈」を捉えた有名な写真からも、そのことが推察できると主張する声もあります。

「アメリカ人のパイロット(フレミング)は、対空砲火により被弾した後も、勇敢にも重巡洋艦の艦橋への体当たりを試みた。それは成功しなかったが、砲塔に激突して火災が発生し、炎は後部機関室へと燃え広がった。その結果、機関室の全員が死亡する爆発が起こり、これこそが重巡にとって致命的な一撃となったのだ」――淵田美津雄、奥宮正武

一方、他の資料では、巡洋艦内で起きた大爆発は、魚雷発射管内の魚雷の誘爆によるものだとされています。真相は今なお定かではありませんが、いずれにせよフレミングの突撃が「三隈」の運命を決定づけたことに変わりはありません。

フレミング艦長――ミッドウェー海戦におけるアメリカの「神風」

フレミング艦長――ミッドウェー海戦におけるアメリカの「神風」

フレミング艦長――ミッドウェー海戦におけるアメリカの「神風」

沈没直前の日本海軍重巡洋艦「三隈」