
1380年9月8日、ドン川の支流ネプリャドヴァ川のほとりに広がるクリコヴォの野で、ロシア史上屈指の激戦が繰り広げられた。モンゴル・タタールの支配に終止符を打とうとしたロシア連合軍と、それを許さないママイ・ハンの大軍。両者が衝突したこの戦いは、あまりにも多くの血を流したことから「血まみれの野原」と呼ばれるようになった。
モンゴル・タタールの支配とロシア諸公国
モンゴル・タタール勢力は早くも13世紀にルーシ(ロシア)を征服し、ほとんどの公たちを朝貢関係下の従属国として組み込んでいた。1370年、ママイ・ハンがジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)――チンギス・ハン帝国の後継国家の一つ――の指導権を握った。
同じ頃、ロシアの諸公国は互いに争っていた。ウラジーミル大公ドミトリー(後の「ドン川の」ドミトリー、すなわちドンスコイ)はトヴェリ公国と対立していた。ママイはドミトリーの勢力拡大を恐れ、トヴェリ側に加担した。両者の抗争は1375年に始まり、勝利は一方から他方へと移りながら泥沼化していった。
そしてついに最終決戦の時が訪れる。舞台となったのは、トゥーラ地方の広域にあたるクリコヴォの野――ドン川とその支流ネプリャドヴァ川、スモルカ川に挟まれた地であった。
進軍するママイの大軍
来たるべき決戦のため、ママイは動員可能なあらゆる兵力をかき集めた。史料によれば、その数は15万を超え、タタール人のほか、チェルケス人、トルコ人、アルメニア人、さらにはクリミアのジェノヴァ植民都市カッファ出身のイタリア人傭兵まで含まれていたという。当時の年代記には、33人の王侯に率いられた70万3千という非現実的な数字が記されている。
同じ史料は、ドミトリー公のロシア軍を45万と伝えている。しかし実際のロシア軍は、6万〜7万人程度に過ぎなかったと見られている。
ロシア軍の綿密な布陣
数的劣勢を覆すため、ロシア軍は三列に展開し、右翼をネプリャドヴァ川に、左翼を近接する森林とスモルカ川に依拠させた。これは、名高いタタール軽騎兵による包囲を避けるとともに、敵の数的優位を相殺するための工夫であった。
さらに戦列の最左翼の森には、ドミトリー・ボブロク公とセルプホフ公ウラジーミル率いる精鋭騎兵部隊が密かに待ち伏せされた。陣頭にはドミトリー公自身が立ったが、実際に公の甲冑をまとい指揮を執ったのは経験豊富なボヤーリン(貴族)ミハイル・ブレンクであり、彼は戦いの中で英雄的に討ち死にしている。一方のママイは、自軍を五つの部隊に編成して臨んだ。
大量に流れる血
先制攻撃を仕掛けたのはタタール軍だった。これに対してロシア歩兵は圧倒的な損害を被りながらも、防波堤として機能し、敵の第一波を食い止めることに成功した。タタール軍は再び攻勢に出る。今度はドミトリー公自身が率いる精鋭部隊が立ちふさがり、公は二度も乗馬を失い、自らも負傷した。ロシア軍の右翼は3時間に及ぶ激戦の末、敵の攻撃を撃退した。しかし左翼は持ちこたえられず、中央部までも崩壊の危機に晒されることとなった。
もちろんタタール軍もまた、甚大な損害を受けていた。両軍とも最後の予備兵力を戦場に投入し、勝負の行方は混沌としていた。そのとき、森の中で息を潜めていたロシアの精鋭騎兵が動いた。勝利を確信したかに見えたタタール軍の背後を突き、不意を打って殺戮を開始したのである。
直ちに残りのロシア軍も態勢を立て直し、総反撃によって敵を一掃した。ロシア軍は敗走する敵を50km先のクラスィーヴァヤ・メーチャ川まで追撃し、数千人を討ち取ったという。両軍の損害は凄惨を極め、双方とも当初の兵力の少なくとも半分を失ったとされる。
僧と勇士の一騎打ち
両軍の狂信的な熱狂と戦闘の凄惨さを象徴する特筆すべき出来事がある。ロシアの修道士アレクサンドル・ペレスヴェートと、ママイの護衛を務めるタタールの勇士チェルベイによる一騎打ちである。開戦の口火を切るべく馬を交えた二人の武者は、互いの槍に胸を貫かれ、相討ちとなって絶命した。

修道士ペレスヴェートとタタールの護衛チェルベイの一騎打ち。