古代の歴史

第二次世界大戦の異色部隊「ギデオン・フォース」――ウィンゲート少佐がエチオピアで仕掛けた型破りな遊撃戦

第二次世界大戦の異色部隊「ギデオン・フォース」――ウィンゲート少佐がエチオピアで仕掛けた型破りな遊撃戦

「ギデオン・フォース」とは何か

「ギデオン・フォース(Gideon Force)」は、特殊作戦の専門家であったオード・チャールズ・ウィンゲート少佐――後にビルマ戦線で名を馳せる「チンディット」の生みの親として知られる人物――によって編成された特殊部隊である。この部隊は東アフリカでイタリア軍に対して作戦を行い、その構成員の多くはエチオピアのゲリラ兵だった。

イタリアは1936年、約6か月に及ぶ戦争の末にエチオピアを占領した。この戦いは完全に非対称なものであり、イタリア軍は軽戦車から化学兵器(毒ガス)まで、あらゆる手段を戦場に投入した。占領後、イタリアは同国に約25万~29万人の兵力を展開したが、そのうち約3分の1がイタリア人将兵で、残りは主にエリトリア出身のイスラム教徒兵士だった。

英軍の反攻計画とウィンゲートの起用

1940年6月10日にイタリアが第二次世界大戦へ参戦しても、東アフリカのイタリア軍は目立った動きを見せなかった。彼らは英埃スーダンと英領ソマリランドへ、ためらいがちに進撃したのみである。当地のイギリス軍はごくわずかな戦力しか持たなかったが、可能な限りの抵抗を続けた。

しかし次第に、イギリスはこの地域からイタリア勢力を一掃する決断を下す。英国・植民地・連邦諸国の有力な部隊が集められたものの、数的には依然としてイタリア軍に劣っていた。一方、エチオピアの抵抗勢力は1936年以来、イタリア占領軍に対して絶え間ない闘いを続けてきた。イギリスはこれらの蜂起集団に着目し、組織化・訓練・装備を与えることで、イタリア軍の背後で大規模な蜂起を引き起こすことを狙ったのである。

この任務を託されたのが、当時少佐だったオード・チャールズ・ウィンゲートだった。彼はスーダンの英軍に5年間勤務しており、地形も人々の気質も深く理解していた。さらに、亡命先から帰還したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエと、プラット英中将との連絡役も務めた。

当初ウィンゲートに配属されたのは2個大隊である。ひとつは英軍所属のスーダン人兵士部隊、もうひとつはイタリア軍と戦った経験を持つエチオピア元兵士による部隊で、加えて少数のユダヤ人志願兵も参加した。部隊の総数は約2,000名。輸送用として18,000頭ものラクダが割り当てられ、スーダン人の騎馬部隊も含まれていた。部隊名「ギデオン・フォース」は、ウィンゲート自身が名付けたものである。

ゴジャム地方への進出

「ギデオン・フォース」は1940年12月、首都アディスアベバ北西部のゴジャム地方へ向けて移動を開始した。同じ頃、イギリスはスーダンに2個正規師団、ケニアにさらに3個師団を集結させ、南北の二方向からイタリア軍を挟撃する構えを整えていた。

英正規軍は1941年1月18日と19日に攻撃を開始した。翌20日、ハイレ・セラシエ帝はウィンゲートとともにスーダンの国境を越え、エチオピア領内へ踏み入った。2月6日、両者はベライア山に到達して司令部を設置。そして2月18日、管轄権をめぐる調整が済んだ後、「ギデオン・フォース」はエチオピアの抵抗勢力と合流し、イタリア軍の前哨基地・小規模な守備隊・パトロールへの攻撃を本格化させた。

ブレ要塞の攻略と追撃戦

2月24日、ウィンゲートは部下を率いてブレのイタリア軍要塞を攻撃し、これを陥落させた。以降もウィンゲートはエチオピアのゲリラと緊密に連携しながら攻勢を継続し、ほどなくハイレ・セラシエ帝自身も当地へ到着した。

イタリア軍に従軍していたエチオピア人兵士たちは次々と脱走し、ウィンゲートと皇帝の部隊へ合流していった。圧迫されたイタリア軍は撤退を開始する。ウィンゲートは包囲による殲滅を試みたが失敗した。それでも追撃を諦めず、最終的にはエチオピアのゲリラが仕掛けた待ち伏せに敵を誘い込み、イタリア軍部隊を壊滅させることに成功した。この戦いでイタリア側は325名の損害を出し、対するエチオピア側の損害は48名にとどまった。3月8日、「ギデオン・フォース」はデベサを解放した。

デブラ・マルコスの解放

次の目標は、ゴジャム州の州都デブラ・マルコス市だった。しかしイタリア軍は反撃に出て、「ギデオン・フォース」は一時撤退を余儀なくされ、再びゲリラ戦へ移行した。この遊撃戦でイタリア軍は200名の死者を強いられる。やがてイタリア軍はウィンゲートとゲリラの圧力に耐えきれず撤退し、4月6日、ハイレ・セラシエ帝は同市に入城した。奇しくも同じ日、英正規軍は首都アディスアベバを解放している。

命令を無視した追撃と部隊の解散

東方へ退却するイタリア軍は、ウィンゲートとゲリラたちに執拗に追い立てられた。「ギデオン・フォース」の主力はアディスアベバへ集結したが、一部の小部隊はゲリラの増援を受けて追撃を継続した。そして1941年5月5日、ハイレ・セラシエ帝は5年ぶりに自らの首都へ凱旋を果たす。

その後もウィンゲートは、停止命令が出されていたにもかかわらず追撃を続け、デベ・シナイでイタリア軍を包囲し、5月24日に降伏へ追い込んだ。この成功の後、「ギデオン・フォース」は同年6月1日をもって解散し、第二次世界大戦の歴史に独自の足跡を刻んだのである。

言うまでもないことだが、エチオピアのゲリラの手に落ちたイタリア兵の運命は、極めて……不運なものだったという。

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