
ライプツィヒの惨敗――ドイツ支配の終焉
1813年10月のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)は、ナポレオン戦争におけるフランス軍にとって最も壊滅的な敗北となった。プロイセン、ロシア、オーストリア、そしてドイツ諸邦からなる連合軍は、ナポレオン自身が指揮するフランス軍を圧倒した。敗北後、ボナパルトは残存兵力を率いてフランスへ向かい、再編成と補充を図りながら戦争の継続を目指した。
ライプツィヒでの敗北により、ナポレオンはドイツに対する支配を完全に失った。残っていたドイツの同盟国――あるいは力ずくで結ばれた「同盟国」――は次々と連合軍側へと寝返っていった。それまでフランスの忠実な盟友だったのがバイエルン王国である。しかしこの時、同国には連合軍の報復を避けて自らを守るため、陣営を変える以外の選択肢は残されていなかった。ハナウの戦いはまさにその目的のための戦いだった。バイエルンにとって、勝っても負けても結果的に「勝利」する政治的な戦いだったのである。
ヴレーデの野望――退路遮断作戦
バイエルンの第六次対仏大同盟への参加を好機と捉えた連合軍は、ナポレオンの退路を断つ計画を立案した。こうしてオーストリア軍団とバイエルン軍団からなる混成部隊が編成され、指揮はバイエルンの名将カール・フィリップ・フォン・ヴレーデ将軍が執ることになった。ヴレーデ軍はオーストリア兵24,000人とバイエルン兵18,000人(歩兵33,000人、騎兵9,000人、砲94門)という大規模な戦力を擁していた。
ヴレーデは、ライプツィヒで打ち砕かれたフランス残存部隊など戦うに値せず、せいぜい2万人ほどの士気を失った兵士を相手にすることになると考えていた。だが、この二つの予測はどちらも外れることになる。
「魔法の腕」――撤退しながら再編されゆくフランス軍
確かにライプツィヒでフランス軍は崩壊した。しかしナポレオンの「魔術的な」手腕によって、フランス軍は撤退しつつも再編成を進めていたのだ。ハナウにおいて、ナポレオンが掌握していた兵力は約30,000人。10月29日、ヴレーデはマイン川沿いのフランクフルトとマインツへ通じる街道を封鎖すべく、ハナウ周辺に到着した。
バイエルン将軍は、オーストリア歩兵師団2個とバイエルン歩兵師団2個、オーストリア騎兵師団1個、バイエルン騎兵旅団1個からなる自軍を、マイン川の支流キンツィヒ川前面の比較的狭い正面に縦深をもって展開させた。さらに主力戦線の前方に広がるランボワの森には、軽歩兵師団を送り込んだ。
騎兵は第二線に置かれ、砲兵は歩兵の前方に配置された。ヴレーデは右翼をハナウ市に、左翼を一帯の湿地に依拠させた。ヴレーデの過ちは、背後に川を臨む形で部隊を配備したことだった。撤退や第一線への増援が必要となった場合、必ず深刻な問題が生じる配置である。その間、ナポレオンは密使たちから敵の動きを逐一知らされており、それに応じた手を打っていた。
ナポレオンの布陣
ナポレオンは輜重隊を別経路に送り出し、兵力の3分の1を率いて決戦に備えた。左翼にはヴィクトール元帥の第2軍団(歩兵師団1個)を配置。中央にはマクドナル元帥の第11軍団(歩兵師団1個)、ドルーエ将軍指揮下の近衛歩兵(約6,000人)、そして近衛騎兵(4個師団、約4,000人)が並んだ。右翼の第二線にはセバスティアニ将軍の第2騎兵軍団(約3,000人)が置かれた。
ナポレオンはマクドナルと近衛隊にランボワの森の掃討を命じ、その後、主力をもって連合軍の左翼と中央に打撃を加える構えを見せた。
10月30日――戦端開く
戦闘は10月30日に始まり、当初からナポレオンに有利に展開した。正午までに近正午までに近衛隊は森を掃討し、フランス軍は皇帝の描いた作戦通りに展開を完了した。フランス軍は50門の砲で連合軍中央を集中砲撃し、同地に配されていた連合軍28門を沈黙させることに成功した。そしてフランス軍は突撃を開始した。連合軍の戦線は持ちこたえられなかった。
ヴレーデが第一線への増援を試みた際も事態は悪化した。増援部隊は現場にあった唯一の橋からキンツィヒ川を渡ろうとして、致命的な混乱が生じたのである。
とはいえ、ヴレーデは自ら陣頭に立って第一線の各部隊を再集結させ、新たな戦線を形成してフランス軍の攻勢を食い止めた。しかし夜が訪れると、彼は撤退を選択し、ナポレオンにとって死活的に重要な脱出路を開け放ったままにした。翌31日にも小規模な戦闘が行われたものの、戦いの帰趨はここに決した。
ピュロス的勝利――戦術的成功は戦略的敗北へ
敗れた連合軍の損害は、死者・負傷者・捕虜を合わせて9,000人に上った。一方、フランス軍の直接の損害も6,000人と決して軽くなかった。なお、ヴレーデ将軍自身もこの戦いで負傷している。
不幸なことにナポレオンにとって、撤退中の軍はこの――ピュロス的――勝利にもかかわらず、さらなる混乱に陥り、続く数日でさらに10,000人のフランス兵が捕虜となった。こうしてナポレオンの戦術的成功は、罠から逃れ切ったにもかかわらず、戦略的敗北へと転化したのである。
5日後、連合軍はフランクフルトに入城した。ナポレオンはその後数か月間、今やフランス本土となった土地で抵抗を続けたが、ついに敗れて降伏を余儀なくされる。1814年4月、退位した皇帝はエルバ島への流刑の道を歩むことになった。

ハナウの戦いの一場面。フランス軍に突撃するバイエルン竜騎兵の姿が描かれている。