古代の歴史

フォクシャニの戦い(1789年)――偵察情報、銃剣突撃、そして「マッセ」隊形がオスマン軍を打ち破った

フォクシャニの戦い(1789年)――偵察情報、銃剣突撃、そして「マッセ」隊形がオスマン軍を打ち破った

フォクシャニの戦いは、ハプスブルク帝国(オーストリア)とロシアがオスマン帝国との戦争で収めた最も重要な勝利の一つである。この戦争は1787年に露土戦争として始まったが、翌1788年にはハプスブルク帝国がロシア側に加わり、戦火はさらに拡大していった。

両軍の動きと決定的な合流

1789年真夏、名将ザックス=コーブルク公ヨシアス率いるわずか18,000人のオーストリア軍が、主に防御任務を帯びて現在のルーマニア地域へ派遣されていた。これに対し、スヴォーロフ将軍指揮下の7,000名からなるロシア軍が合流のため急行していた。一方、対面するオスマン軍は、大宰相ユスフ・パシャの下に大規模な兵力を集結させていた。

オスマン軍の指揮官は「内線機動」によって、オーストリア軍がロシア軍と合流する前に先制打撃を与えることを決意した。そのため、30,000人の兵力を与えられたオスマン・パシャに対し、当時重要な経済・交通の要衝であったフォクシャニから北上するよう命じたのである。

しかしザックス=コーブルク公はオスマン軍の動きをいち早く察知し、スヴォーロフへ「可能な限り速やかに合流せよ」と伝令を送った。ロシア軍は実際に28時間で65kmという驚異的な強行軍を行い、味方との合流に成功した。

戦闘への道

両同盟軍の合流により、ユスフ・パシャの作戦計画は崩壊した。オスマン・パシャは防御態勢へ移行し、フォクシャニ近郊に要塞化された野営陣地を構築した。7月31日、同盟軍の軽騎兵偵察哨戒戒隊がオスマン軍の哨戒隊と衝突。両同盟軍の指揮官はここでオスマン軍の配置をおおよそ把握し、攻撃を決断した。

スヴォーロフの麾下には、線列歩兵3個連隊と軽歩兵1個連隊(それぞれ2個大隊編成)、擲弾兵2個大隊、竜騎兵3個連隊、そしてコサック軽騎兵の分遣隊があった。一方ザックス=コーブルク公は、線列歩兵4個連隊、グレンツ(国境歩兵)軽歩兵2個連隊、精鋭擲弾兵4個大隊、軽竜騎兵(シュヴァーレジェーガー)1個連隊、胸甲騎兵なしで軽快な軽騎兵たるユサール3個連隊、さらにバルカン半島出身の非正規兵分遣隊を指揮していた。

「マッセ」隊形の採用

過去の対オスマン戦の経験から、スヴォーロフとザックス=コーブルク公は共通の結論に達していた。すなわち、従来の薄い線列戦術では通用しないということである。

オスマン軍の最初の猛攻に耐えられるのは、より縦深のある密集隊形だけだった。そこで両将は歩兵を「マッセ(masses)」と呼ばれる深い隊形に編成した。これは閉鎖方陣と密集突撃ファランクスの中間に位置するような隊形である。この隊形は射撃を継続できるうえ、容易に周囲に「サーベルの森」を形成してオスマン騎兵の突進を阻み、同時に凝集力を損なうことなく素早く移動することも可能だった。

決戦 ―― 1789年8月1日

こうして1789年8月1日の朝、同盟軍は歩兵をマッセ隊形で展開して戦列を敷いた。各マッセの間には十分な間隔が設けられ、それらは軽歩兵と砲兵によって掩護された。第一線のマッセの間隙の後方には第二線のマッセが控えており、必要とあらば即座に前進して単一の正面を形成でき、万一第一線が後退すれば、凝集力を保ったまま直ちに支援に回ることができた。

午前9時、軍旗を翻し、太鼓のリズムを刻みながら、同盟軍は要塞化されたオスマン軍阵地へ前進を開始した。オスマン・パシャは待てど攻撃を迎えるだけではなく、自軍の騎兵に反撃を命じ、敵歩兵を蹴散らそうとした。

しかしここで「マッセ」がその真価を発揮した……オーストリア・ロシア両歩兵は微塵も動じることなく、絶対的な安全圏から敵に向けて致命的な一斉射撃を浴びせたのである。正規歩兵が敵騎兵に脅威となるのは、側面や背後から襲われた場合、あるいはパニックや損害によって凝集力を失った場合に限られる。

マッセ隊形はまさにこの弱点を克服していた。敵に側面も背面も見せず、その縦深ゆえに容易には動揺しなかった。甚大な損害を被ったオスマン騎兵は、要塞化された陣地内へ退却せざるを得なくなった。

だが同盟軍は追撃の手を緩めなかった。右翼からオーストリア軍が、左翼からロシア軍が攻撃を仕掛けた。スヴォーロフは騎兵を第一梯団として投入したが撃退され、戦局を決したのは歩兵マッセの突撃であった。

右翼では、精鋭擲弾兵に率いられたオーストリア軍が、銃剣・銃床・刀剣を交えた激戦の末にオスマン軍の要塞線を突破し、敵陣地へ殺到した。予備隊をオーストリア軍の正面へ振り向けざるを得なくなったオスマン・パシャは右翼が手薄となり、結果としてロシア軍も要塞線の突破に成功した。

圧倒的な勝利とその後

両翼とも支援を失って「宙に浮いた」形となったオスマン・パシャは、総退却を命じるほかなかった。幸いにも騎兵戦力で優位に立っていたため、オスマン軍はキリスト教徒騎兵の追撃を受けることなく、比較的秩序ある撤退を実現している。

この戦いでオスマン軍は4,000人の死傷者を出したのに対し、同盟軍の損害はわずか800人にとどまった。さらに同盟軍は12門のオスマン軍スマン軍砲を鹵獲した。しかし、オスマン帝国にとって本当に悲惨な事態は、この後すぐに訪れることになるのである。

フォクシャニの戦い(1789年)――偵察情報、銃剣突撃、そして「マッセ」隊形がオスマン軍を打ち破った