
近年、ギリシャを犠牲にしてでも復活を夢見るかのように、トルコの「隣国」たちが誇りにしてきたオスマン帝国。しかし、彼らが描く強大な戦争マシンの像は、実態とは大きくかけ離れていた。当初は無力な相手との戦いで頭角を現したその軍事制度も、やがて帝国の足かせとなっていったのである。
18世紀のトルコ軍は、数的には非常に大きかった。しかし質の面では、特にヨーロッパ諸国に対して大きく立ち遅れており、意外にも東方の相手に対してもそうだった。ペルシアとトルコの間には何世紀にもわたって数多くの紛争があったが、18世紀に入ると、サファヴィー朝ペルシアの衰退により、優勢なのはトルコの方に見えた。
ナーディルの台頭
1730年、トルコはペルシアの勢力圏に侵攻し、ペルシア国家の解体を図った。しかしペルシア側は反撃に出る。優れた将軍にして軍事改革者(後のシャー)であるナーディルのもと、ペルシアはトルコに宣戦布告した。
ナーディルが指揮を執っている間、戦争はペルシアにとって順調に進んだ。ところが無能なシャー、タフマースプ2世が指揮権を握ると、ペルシア軍はアルメニアのエレバンで壊滅的な敗北を喫する。しかし、酒浸りのシャーは退位を余儀なくされ、ナーディルが国家の実権を掌握すると、たちまち戦局は好転した。
ペルシアの反攻
ナーディルは現在のイラン西部からイラクにかけての地域でトルコ軍を打ち破った。しかしタブリーズ地方や南カフカスでは、依然としてトルコ軍が強勢を保っていた。そこでナーディルは、現在のアゼルバイジャンにある敵方の要衝ガンジャの攻略を目指して進軍した。
これを許さないトルコ側は、アルバニア系出身のアブドゥッラー・キョプリュリュ・パシャ率いる新たな大軍を送り込んだ。その兵力は騎兵5万、歩兵3万、加えて40門のカノン砲という大所帯である。
ナーディルは1734年11月初旬、ガンジャの城壁外に到着した。しかし同市の防備はあまりに堅固で、強襲を試みることはなかった。代わりに包囲戦を選び、一部の部隊に包囲を任せると、自身はエレバンとトビリシへ向かい、これらの都市も包囲した。
一方、キョプリュリュはカルスで自軍を集結させ、包囲された諸都市の解放を第一目標としてペルシア軍への進撃を開始した。だがナーディルは、この動きに驚きすら見せなかった。
クレタ島出身のギリシャ系アルメニア人カトリック司教アブラハム3世――事件の同時代人にして年代記作者――によれば、トルコ軍が向かってくることを聞いたナーディルは、「神に感謝する。私は長い間、この瞬間を待ち望んでいた」と叫んだという。
ただし、ナーディルの手元にあったのはわずか1万5000〜1万8000人であった。残りの部隊は包囲戦に充てられていたからだ。4倍以上の敵を前に、通常なら不安を覚えるはずの場面だが、彼には揺るぎない自信があった。ヨーロッパ式の戦術、とりわけ砲術を導入して再建した自分の軍隊に対する信頼である。
戦闘機動
1735年6月18日の夕刻、ナーディルはアルメニアのイェゲヴァルド地方の小さな高地に陣を敷いた。南西方向には遮るもののない平原が広がり、そこにトルコ軍が現れるはずだった。平原の端、高地に対して約90度の角度に位置する、樹木に覆われた丘がもう一つあった。ナーディルはここに一部の部隊を伏兵として配置し、主力が正面から交戦した際にトルコ軍の左翼と背後を突く任務を与えた。
翌日、両軍は数時間にわたり対峙した。伏兵に気づいていなかったにもかかわらず、トルコ軍は攻撃をためらっていた。そこでナーディルは挑発することにした。自ら3000人の兵を率いて高地を下り、トルコ軍の左翼に攻撃を仕掛けた。目的は、左翼を引き離すことにある。露出したトルコ軍の側面を、予備部隊に突かせる算段だった。
このときトルコ軍は、ペルシア軍の奇襲を予想していなかったため、ペルシア軍右翼の正面にあたる小高い丘の上に、ようやく砲列を整えようとしている最中だった。しかし時間はなかった。ナーディルは、準備のできていないトルコ砲兵に向けて、精鋭の銃兵隊「ジャザーエルチ」2000〜3000人を投入したのである。彼らは容易くトルコ砲兵を殲滅し、ほぼすべてのトルコ砲を鹵獲した。トルコ軍の右翼でも同様のことが起きた。精鋭ペルシア兵の電撃的な攻撃により、右翼前方のトルコ砲兵も制圧されてしまったのである。
驚くべきことに、無防備に自軍の大砲を奪われていくペルシア歩兵に対し、トルコ騎兵はまるで反応しなかった。トルコ軍の士気は、すでに劇的に低下していたのだろう。こうなれば、ナーディルは計画の次の段階へ進むだけだった。今度は「ザンブーラク」の出番である。
ザンブーラクとは、ラクダの鞍に据え付けられた小口径の軽量砲のこと。極めて機動性が高く、戦術的な柔軟性を持つ砲兵であり、ナーディルは約500頭のザンブーラク用ラクダを保有していた。
砲兵が支配し、歩兵が制圧する
トルコ砲兵が無力化されたことで危険が去ったザンブーラク部隊は、恐れることなくトルコ軍の戦列に接近し、死の雨を降らせ始めた。ナーディルの重砲も戦闘に加わり、短時間のうちに300発以上の砲弾を浴びせた。トルコ軍の戦列は即座に動揺の兆候を見せた。ナーディルは当然これを見逃さず、イェニチェリという「精鋭」が並ぶはずのオスマン軍中央へ、全軍をもって突撃した。火砲の猛射とペルシア兵の勢いの前に、圧倒的に数で勝るはずのトルコ軍は後退を余儀なくされた。
これこそナーディルが予期していた展開である。彼は予備の部隊に攻撃の合図を送り、自らその先頭に立った。わずか1000人ではあったが、真の精鋭たる騎兵隊が、勝負を決めたのである。
キョプリュリュの軍団にとって、これが終わりとなった。キョプリュリュ自身はペルシア兵の一兵卒の手にかかって討ち死にし、多くの将校や数千の兵士もろとも倒れた。総勢8万のトルコ軍のうち、少なくとも半数が戦死、負傷、または捕虜となった。損害をさらに大きく見積もる資料もある。この大敗の後、トルコは講和を求め、ガンジャ、トビリシ、エレバンを明け渡すことになったのである。