仏教僧院(ヴィハーラ)から発見された打ち刻み貨幣(パンチマーク貨)は、一枚の布に包まれた状態で出土しました。この布はボンベイ(現ムンバイ)のターナー社およびグラティ社によって鑑定が行われ、両社とも「この布は同一の時代、すなわちマウリヤ朝時代のものである」と結論付けています。アショカ王ゆかりの織物が実在していたことを裏付ける、貴重な物的証拠といえるでしょう。
僧侶たちの生活用品
この遺跡からは、光沢を放つ托鉢鉢、土製の皿、礼拝用の壺といった僧侶の日常品も数多く見つかっています。さらに、コブラの頭部を思わせる形状の鍋、線香を立てるための穴が開けられた土器、舞踊者やヤクシャ(夜叉)の像、表面に特有の刻印が施された粘土球なども出土しており、当時の僧院での暮らしや信仰の様子を今に伝えています。
タントラ信仰と呪術の痕跡
バイラートから出土した遺物の中には、鉄釘や、楕円形・円形の薄い折り畳み模様を持つ小さな石板が含まれており、これらは護符として用いられていたと考えられます。注目すべきは舞踏するヤクシー(女神像)の出土で、頭部と脚部は失われていますが、左手を腰に当て、右手を胸元に添えた優美なポーズが残されています。裸体で腰には三連の飾り帯を着けたこの像とよく似た彫刻は、マトゥラーの欄干柱からも発見されており、紀元前1世紀にまでさかのぼることが分かっています。
僧院を支えた鉄器工房
バイラートの仏教僧院の近くには鉄器工房が置かれ、僧院で暮らす人々の必要を満たすために各種の鉄製品が生産されていました。曲げ加工を施した鉄片、釘、釘が打ち付けられた接合金具(フィッシュプレート)などが大量に出土しており、その規模の大きさが伺えます。
発見品には大小さまざまな釘、細い棒材、幅広の縁部に釘を打った大型の鉄帯、鉄砂、金属帯の束のほか、矢尻の先端や針も含まれていました。また、両端が深くえぐられた銅製の耳かきも見つかっています。これは現代の耳かきと同じように、耳の汚れを取り除くための道具でした。
ブラーフミー文字による銘文
これらの遺物の出土地点からやや離れた場所では、表面の平滑なチューナール産砂岩板も発見されています。さらに寺院北側の溝からは、土器の口縁部の一部が出土し、そこにはブラーフミー文字による銘文が刻まれていました。アショカ王の法勅との関連を示唆する重要な発見です。
四つの文化層が語る歴史
バイラートの文明には四つの層位(文化層)が存在することが明らかになっています。最初の発掘はダヤー・ラーム・サーヒニーが担当し、続く第二次発掘はニララトナ・バネルジーとカイラーシュナート・ディクシットによって行われました。第二次発掘では彩色灰色土器(PGW)、北インド黒色磨研土器(NBPW)、そして古代期の重要な遺構が確認され、四つの異なる時代の文化を示す層序が浮かび上がりました。
- 第一層: 最も古い層。この地最初の住民は彩色灰色土器を使用していました。
- 第二層: 黒色磨研土器を使用する人々の時代が続きます。
- 第三層: 紀元初頭の文化に関わる人々が暮らしていた層です。
- 第四層: 中世の釉薬を施した陶器が出土する最上位の層です。
玄奘三蔵が目にした8つの仏教僧院
7世紀にインドを訪れた中国の高僧・玄奘三蔵は、この地域に8つの仏教僧院が並ぶのを目撃し、旅行記にこの地名を「ポロ・トロ」と記録しています。彼が訪れた当時、この地はかなりの知名度を誇る仏教の中心地だったに違いありません。アショカ王が法勅碑を建立した計画に基づけば、これら8つの僧院周辺には128基の碑文が建てられていたはずですが、今日までに発見されているのはわずか2基にとどまります。
8つの僧院が一つの地域に集中していた事実は、この一帯における仏教の影響力がいかに広大だったかを物語っています。一説によれば、これらの僧院は現在の市街地が広がる丘(マウンド)の地下に眠っている可能性もあるといいます。
マウリヤ帝国滅亡の一因
これらの僧院では、出家者は衣食住と安全を無償で保障され、加えて社会からの敬意も受けていました。そのため、兵士や農民になる道よりも出家を選ぶ若者が急増しました。大量の青年層が僧籍に入った結果、マウリヤ朝の軍事力は著しく弱体化し、帝国存立の基盤そのものが揺らいだのです。紀元前184年、ブリハドラタ王の大臣にして将軍であったプシャミトラ・シュンガが主君を弑逆し、自らマガダ国の王座に就きました。
シュンガ朝の支配とスーラトガルの遺物
シュンガ朝は紀元前184年から紀元前72年にかけてマガダ地方を統治しました。王朝の創始者プシャミトラ・シュンガはバラモン出身であり、仏教よりも伝統的なバラモン教を庇護することを優先したと考えられています。
スーラトガルは、ガンガーナガル県庁所在地から約78km離れた場所にある古い町です。当地には「ソーダル」の名で知られるジョヒーの古城があり、1799年、ビーカーネール王スラト・シングが新しい砦を築いて「スーラトガル」と名付けました。これ以降、ソーダルガルはスーラトガルと呼ばれるようになります。
興味深いことに、新砦の建設に使われたレンガの多くは、近隣の仏教遺跡から運ばれたものでした。仏教遺跡から得られた数々の土製品はビーカーネール城に収められ、その中には蔓草ハッジョラの葉、聖鳥ガルーダ、象、魔神などをかたどった図像が含まれています。これらの遺物には、ガンダーラ美術の影響が色濃く見て取れます。
ガンダーラ様式はインドとギリシャの彫刻技法が融合して生まれたもので、ブッダ像に独特の造形をもたらしました。ガンガーナガル県の「ラングマハル」と呼ばれる塚から出土した動植物の図像、男女の多彩な姿態、豊富な衣装や装身具、巻き毛とたくましい口ひげの表現は、生命力と写実性に満ちた傑作群です。さらにこの塚からは、ブッダ像のみならずマハーヴィーラ尊者、シヴァ神、クリシュナ神の像も粘土や石材で発見されており、当時の宗教的多元性を示す貴重な資料となっています。