歴史物語

予期せぬ妊娠、そしてレイプ――ヨーロッパ王室の「性教育」はどのようなものだったのか?

支配者一族にとって最大の任務は、世継ぎをもうけることでした。しかし、赤ちゃんがどこから来るのかについては、誰ひとり語りませんでした。知識の欠如は、しばしば望ましくない、さらには悲劇的な結果をもたらしたのです……

性的な「目覚め」に関しては、若い男性たちのほうがはるかに自由でした。結婚する前であれば、召使いたちや小間使いと「遊ぶ」ことが黙認されていたのです。エカチェリーナ2世の孫たち――後のアレクサンドル1世とその弟コンスタンチンも、こうして大人への階段を上りました。

一方、ヴィクトリア女王の息子で、後のエドワード7世となるアルバート・エドワードは、軍務に就いていた頃に初体験を迎えました。同僚の将校たちが、女優ネリー・クリフデンを兵舎に忍び込ませ、王子は彼女と幾晩か夢のような時間を過ごしたといいます。ニコライ2世の義兄となる大公アレクサンドル・ミハイロヴィチも、乗艦していた軍艦の水兵仲間に後押しされました。日本寄港の際、彼らは若きロマノフ家の大公を遊郭へ連れて行ったのです。

7年間続いた未完婚の結婚生活

より不運だったのは、フランスの王太子ルイ・オーギュスト――即位後はルイ16世となり、フランス革命の渦中で処刑されることになる男――でした。オーストリア女帝マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットとの結婚は政略婚で、両国はこの縁組によって二国間関係の修復を図ろうとしていました。婚約交渉が始まったとき、若き王子は13歳、未来の妻は11歳でした。

3年後に執り行われた婚礼の前に、二人が顔を合わせることは一度もありませんでした。しかも式典そのものが代理婚(ペル・プロキュラ)という形式で行われています。つまり、祭壇の前には新郎の代わりにフランス宮廷の代理人が立ったのです。その後、若い花嫁はパリへ向かい、祝賀の晩餐会が催された後、新郎新婦は寝室へと案内されました。

予期せぬ妊娠、そしてレイプ――ヨーロッパ王室の「性教育」はどのようなものだったのか?

しかし結婚は、その夜もその後も未完婚のままでした。少年には、妻のそばに横になって眠るだけの力しか残っていなかったのです。翌朝、ルイは日記に「何もなし」と書き記しました。この言葉は夜ごと繰り返されました。未完婚であることは廷臣たち全員の知るところとなり、その責任はマリー・アントワネットに押し付けられることになりました。

数ヶ月後、ルイは郊外の宮殿へ赴きたいと希望を表明し、若い妻にそこで「真の親密さ」を経験できると約束しました。自分自身も婚姻の義務が何であるかを心得ている、とも。しかし、二人きりの環境でも目的は達成されず、母帝マリア・テレジアは嘆きました。「あれほど美しい娘が夫に情欲を起こさせられないのなら、事態はもはや絶望的だ」

結婚から6年が経っても若い妻は処女のままだったため、彼女の兄にあたるオーストリア皇帝レオポルト2世が、この国家的重要案件について話し合うために旅立ちました。夫婦の結合は結婚から7年後にようやく果たされ、その1年後、待ち望んでいた子供が生まれたのです。

蜂と蝶の話――妊娠の意味すら知らなかった王妃

性に関する無知の犠牲者となったのが、ルーマニア王太子フェルディナンドの妃となったマリア(愛称ミッシー)です。この若い令嬢は申し分のない家柄の持ち主でした。母方のマリア・アレクサンドロヴナを通じてアレクサンドル2世の孫娘であり、父アルフレッドはエディンバラ公爵で、ヴィクトリア女王の息子にあたります。

美しいブロンドのミッシーは、ヨーロッパの「結婚市場」で引く手あまたの存在でした。プロポーズしてきたのは、イギリス王位継承者のジョージやロマノフ家の大公の一人でした。しかし強引な母親は、娘が別の男性に恋心を抱いていたにもかかわらず、ルーマニア王太子との縁談を進めたのです。

17歳の孫娘の早すぎる結婚にヴィクトリア女王は反対しましたが、マリア・アレクサンドロヴナは姑の嘆きを意に介しませんでした。少女たちは、自らの世界観が形成される前に、できるだけ早く嫁がせるべきだと考えていたからです。ミッシーは、結婚とはどのようなものかを何も知らないまま育てられました。そのため、後年回想録の中で認めているように、新婚初夜に本物の衝撃を味わうことになります。フェルディナンドには、若い妻が夫に慣れるには時間と忍耐と優しさが必要だという発想がありませんでした。王子はただ自らの婚姻の権利を行使し、マリアの恐怖と涙を無視したのです。

予期せぬ妊娠、そしてレイプ――ヨーロッパ王室の「性教育」はどのようなものだったのか?

コーブルクのマリアは、夫から残酷な仕打ちを受けました

数ヶ月後、公女は体のだるさと疲労を感じるようになり、朝には吐き気が襲い、特定の匂いが頭痛を引き起こすようになりました。これらの症状を女官に訴えたところ、女官はこう告げました。「おめでとうございます、殿下!殿下はご懐妊なさっています!」マリアの驚きは計り知れないものでした。子供がどこから来るのか、まったく知らなかったからです。それどころか、その答えに今度は女官のほうが唖然とさせられたほどでした。

罪なき者の罰

ルーマニアのマリアの運命は決して羨ましいものではありませんでしたが、時が経つにつれ、彼女は心から愛せる男性と出会い、恋人とすることができました。ところが、メクレンブルク=シュトレーリッツ公女マリア(1878年~1948年)の場合には、本物の悲劇が待ち受けていました。

この少女は、ドイツ帝国北部の領邦に生まれました。祖母アウグスタ――ヴィクトリア女王の従姉妹にあたります――を通じて、イギリス王室とも縁戚関係にありました。当時、小規模なドイツ諸宮廷で育つ公女たちは本格的な教育を受けることはほとんどなく、何よりも重要視されていたのは、お辞儀と刺繍を身につけることでした。外の世界についての知識は歓迎されなかったのです。

ある日、マリアの両親――メクレンブルク=シュトレーリッツ大公アドルフ・フリードリヒとその妃エリーザベト――は、19歳の娘の腹部が危険なほど膨らんでいることに気づきました。なんと、少女は妊娠していたのです!しかし、マリアはずっと実家にいたはず。いったいどこで妊娠したというのでしょうか?!

予期せぬ妊娠、そしてレイプ――ヨーロッパ王室の「性教育」はどのようなものだったのか?

メクレンブルク=シュトレーリッツのマリアは使用人に暴行され、長い間その理由を知らないまま妊娠していました

公女の父が命じた調査の結果、ヘヒトという名の使用人が子供の父親であることが判明しました。彼の職務には毎晩マリアの部屋の明かりを消すことが含まれており、その後、男はシーツの中に横たわる怯える公女を暴行し続けていたのです。少女はあまりに混乱し、家族に訴え出る勇気を持てませんでした。

真相が明らかになった後、ヘヒトは解雇されました。ところがマリアの両親は、かえって娘に責任があると考え、娘との縁を切ろうとさえしました。ヴィクトリア女王の介入によって初めて、少女は実家に留まることを許されたのです。公女は非嫡出の子を出産し、その子は祖母アウグスタのもとで育てられました。

参考文献:

  1. Gelardi J. Born to Rule: Five Reigning Consorts, Granddaughters of Queen Victoria. London, 2005
  2. Gelardi J. In Triumph's Wake. London, 2009
  3. Pope-Hennessy J. Queen Mary. 1867-1953. London, 1959