イングランド初の死刑判決を受けた王妃、アン・ブーリン
ヘンリー8世の6人の妻の中で、最も劇的な運命をたどった女性――アン・ブーリン。彼女は宗教改革の立役者として崇められたのか、それとも魔女として罵られたのか。歴史は彼女を「愛されし王妃」と「憎まれし魔女」の狭間に置き去りにした。
宮廷へのデビューとブーリン家の血統
アン・ブーリンは1501年(または1507年)、外交官トーマス・ブーリンとエリザベス・ハワード(ノーフォーク公爵の娘)の間に生まれた。ブーリン家はケント州のヒーヴァー城を本拠とし、アンは兄ジョージ、妹メアリーと共にそこで幼少期を過ごした。
身分相応の教育を受けたアンは、読み書き・算術・歴史・家系図の暗記に加え、家政管理、裁縫、舞踏、音楽、作法まで習得。1513年からはオランダ・マーガレット公妃の宮廷、その後フランス王妃クロードの宮廷で仕え、大陸の洗練された宮廷文化と言語を身につけた。
1522年3月、イングランド宮廷に正式デビュー。すでに3年前から宮廷にいた妹メアリーがウィリアム・ケアリーと結婚しながら国王の愛妾となっていたのとは対照的に、アンは「世間知らずの令嬢」ではなく「ファッションと世界を知る女性」として尊敬を集めた。
王の執念と「妾」を拒んだ女
1526年、ヘンリー8世はアンに「公式愛妾(メトレス・アン・ティトル)」の地位を提案した。しかしアンはこれを拒絶。「王妃になりたい」という強い意志を貫いたのだ。
当時ヘンリーは、正妻キャサリン・オブ・アラゴンとの間に男子継承者を得られずにいた。キャサリンは6度の妊娠の末、健康な娘メアリー(後のメアリー1世)を残したのみ。王朝の存続と内戦回避のため、ヘンリーはアンの元に「運命」を見出した。
離婚も殺害も選べぬ中、ヘンリーは婚姻無効をローマ教皇に請願。「キャサリンは亡き兄アーサーの未亡人であり、レビ記の禁忌に触れる」という理由で、教皇庁からの特免状自体を争う戦略に出た。
ローマとの決別――新たな宗教の夜明け
教皇クレメンス7世が拒否し、枢機卿トーマス・ウォルジーの仲介も失敗。アンと側近たちはウォルジーを失脚させ(1530年反逆罪で告発、獄中死)、改革派司祭トーマス・クランマーの進言により、「王の婚姻は聖書に基づき、大学の聖書学者が判断すべき」との理屈で教皇権を迂回した。
1531年、キャサリンが宮廷を去り、アンが王妃の寝室を占める。トーマス・クロムウェルが「首位法」「継承法」を成立させ、ヘンリーを「イングランド国教会の最高首長」に祭り上げたのだ。
秘密の結婚、戴冠、そして冷ややかな民衆
1533年1月、ロンドンで極秘結婚。5月、クランマー大司教が前婚無効を宣言し、6月1日、アンは正式にイングランド王妃として戴冠式を迎えた。ヘンリーは盛大な祝宴と200人超の随行員で民心を掴もうとしたが、式典での民衆の熱狂は薄かった。ローマ教皇は依然としてヘンリーの復縁を求め、対立は深まるばかりだった。
期待と絶望の狭間で――エリザベス誕生と流産の連鎖
グリニッジ宮殿で待たれた第一子は、1533年9月7日、女子エリザベス(後のエリザベス1世)だった。ヘンリーの落胆は隠せず、宮廷の空気は凍りついた。翌年クリスマス前に流産。夫婦の亀裂は決定的になった。
ヘンリーは公然と愛妾を寝所に招き、アンは嫉妬と鬱に苛まれた。1535年末、キャサリンの死を二人で祝う束の間の幸福の後、ヘンリーは侍女ジェーン・シーモアに熱を上げる。アンが二人の逢引を目撃した衝撃で、待望の男子を流産。その胎児が「待望の王子」だったことを知った時、アンは自らの命運を悟ったはずだ。
仕組まれた落とし穴――姦通・近親相姦・大逆の罪
男子を産めぬ妻を廃する最短ルートは「死」だった。クロムウェルはアンの側近数名を「王妃の愛人」として逮捕。拷問の末、一部が自白を強要された。さらには実弟ジョージ・ブーリンとの「近親相姦」まででっち上げられた。
1536年5月、弟らが処刑。5月14日、ヘンリーとの婚姻は無効と宣言され、5月19日未明、アン・ブーリンはロンドン塔グリーンにて斧ではなく剣で斬首された。享年29〜35歳。最期の言葉は「慈悲深き主イエスよ、我が魂を受け給え」だったという。
歴史が問う「愛と憎しみの境界線」
アン・ブーリンは、王の愛を手に入れるために教会を二分し、王妃の座を勝ち取り、娘エリザベスを通じて黄金時代の礎を築いた。だが、その愛は憎悪に変わり、彼女を断頭台へ送った。歴史上「最も影響力のある王妃」の一人でありながら、その生涯は権力と欲望、そして女としての誇りが交錯する悲劇そのものだった。