歴史物語

1944年8月――ワルシャワは蜂起で戦い、クラクフはナチスのために塹壕を掘った?

1944年8月、ワルシャワとクラクフで何が起きていたのか

街頭で「1944年8月、ワルシャワの人々は何をしていたと思う?」と尋ねれば、おそらく大半の人はこう答えるだろう――「蜂起に参加していた」と。では同じ時期、クラクフの住民たちは何をしていたのか。実はヴァヴェル城のふもとに広がるこの街では、多くの市民が自発的に……ドイツ軍のための防御工事に駆り出されていたのである。

占領政策の転換――「柔軟路線」という名の懐柔策

「千年帝国」の崩壊が日増しに近づくなか、ドイツ占領当局のポーランド総督府におけるポーランド人への態度にも変化が見え始めた。いわゆる「柔軟路線」である。その目的は、進撃してくる赤軍の阻止に協力するよう、総督府領の住民を説得することにあった。

国防軍(ヴェーアマハト)傘下にポーランド人補助部隊を創設する構想もその一つだったが、この計画はまったく実を結ばなかった。最大17万5000人に達するという当初の志願者数の見積もりは、絵空事にすぎなかったのだ。

1944年8月――ワルシャワは蜂起で戦い、クラクフはナチスのために塹壕を掘った?

これがナチスによるポーランド人懐柔の実態だった……。

実際、1944年11月から12月にかけて、クラクフのルボミルスキ通り19番地にある募集窓口に申し込んだ者は500人足らずだった。しかし、アンジェイ・フヴァルバ教授の著書『占領期のクラクフ1939-1945』が描く、クラクフ東方での防御陣地建設の話は、少し様相が違っていた。

さあ、シャベルを取れ

1944年夏、赤軍の急速な前進により、クラクフは一気に最前線の街と化した。8月6日、「防衛堤防」(東方堤防とも呼ばれる)建設のための志願者募集の告知が掲示された。それは東からの「ボリシェヴィキの猛攻」を食い止めるための障壁となるはずのものだった。

ドイツ側を驚かせたのは、指定日の8月24日、クラクフ中央駅前に大勢のポーランド人がシャベル片手に集まったことである。しかも道具は半分の人数分しか足りなかったうえ、ドイツ側の報告によれば、現場の雰囲気は「実に良好」だったという。

驚いたのはポーランド地下組織も同じだった。アンジェイ・フヴァルバは次のように記している。

「怒りは無力感と混ざり合い、いわゆる『シャベル騎士』への軽蔑と断罪へと向かった。彼らは臆病者に取り巻かれた『小さな人間たち』、日和見主義者とみなされ、『クラクフの恥さらし』として映ったのだ」
1944年8月――ワルシャワは蜂起で戦い、クラクフはナチスのために塹壕を掘った?

ワルシャワで蜂起が続いていたまさにその頃、クラクフでは赤軍を食い止めるための陣地構築要員としてドイツ軍が人員を募集しており、驚くほど多くの者が志願していた。写真は1944年8月1日付の機関紙『ゴニェツ・クラコフスキ(クラクフ通信)』に掲載された呼びかけである。

志願者の動機は「特典」にあり

地区政府代表はビラの中で、若いクラクフ市民の態度について、テロや脅迫によってナチスへの協力を決意せざるを得なかったのだと説明しようとした。だが、真実は少しばかり違っていた。

応募が殺到した最大の理由は、占領当局が用意した「報酬」だった。それまでの過酷な労働からの解放に加え、志願者にはタバコ、酒、食料切符などの追加支給や、夜間の外出の自由などが約束されていた。さらに重要だったのが、クラクフと土工事現場の間を無検査で往復する列車を使って、さまざまな物資を運べる機会であった。

初期の段階では、ドイツ側も約束を守っていた。だからこそ、堤防に現れる志願労働者はますます増えていった。ところが、これまで幾度となく繰り返されてきたように、しばらくすると「特典」の支給は打ち切りとなり、労働はどんどん強制的なものへと変わっていった。

当然、「千年帝国」防衛への参加希望者は激減した。地下組織の反応も無視できない要素だった。地下組織は、防御陣地掘削への自発的参加は敵のための労働に等しく、その刑罰はただ一つ――銃弾による処刑だと公表したのである。サピェハ大司教もこの件に関して特別な司牧書簡を発表した。

古くから使われる強制手段

こうした要因の結果、ドイツ当局は昔ながらの募集方法――「強制志願者」の個人名簿の公示――に頼らざるを得なくなった。対象は1909年から1928年生まれの世代だった。しかしそれすら効果は薄く、割り当てられた者のうち実際に作業に現れたのはわずか20〜30%にとどまった。

1944年8月――ワルシャワは蜂起で戦い、クラクフはナチスのために塹壕を掘った?

ドイツ軍の防御工事に従事するクラクフの女性たち。1944年8月15日付『ゴニェツ・クラコフスキ』掲載。

こうなると、占領当局に残された選択肢は、最重量級の「説得材料」を使うことだけだった。9月11日、防御塹壕工事の妨害を理由に死刑を宣告された人々の名前を掲げた張り紙が現れたのである。

1944年8月――ワルシャワは蜂起で戦い、クラクフはナチスのために塹壕を掘った?

一方で9月22日には、ハンス・フランク総督が最も熱心な「掘削者」たちを表彰することになった。『占領期のクラクフ……』の頁によれば、彼らは次のような「栄誉」に浴したという。

「詩人たち、歴代の王たち、そしてピウスツキに敬意を表する機会が与えられた。総督との合同視察の間、ヴィエリチカの坑夫楽団が演奏を披露し、『塁壁』での労働の英雄たちには貴重な贈り物と表彰状が授与された。『1944年の塁壁建設への貢献を称えて――フランク』」

フランクによるこうした「演出」は、これが初めてではなかった。思い起こせば1943年3月、クラクフ駅からライヒへ送られる100万人目の強制労働者に対し、この「ポーランド王」は金の腕時計を手渡したのだった。

しかし、すべては水の泡に終わった。クラクフ市民は一時的な「心の弱さ」から立ち直り、結局は牛のように引きずられる形で労働に従事させられることになった。それでも、ある種の後ろめたさは残ったままだった。そしてこの歴史は、クラクフではほとんど語られることがない――さて、その理由は何だろう?