本サイトではすでに、1944年末にドイツが最大17万5000人の兵士からなるポーランド人補助武装部隊の創設を画策していたことについて取り上げた。しかし、占領下ポーランドにおけるこうした試みは、それが初めてではなかった。それ以前にナチス・ドイツは、「山岳民(ゴラル)武装親衛隊軍団」の創設を企てていたのである。
ヴァヴェル城の「名誉衛兵」――最初の試み
早くも1939年秋、総督ハンス・フランクは、ドイツに協力していたヴァツワフ・クシェプトフスキに対し、自らの傍らに仕える山岳民による「名誉」衛兵隊の組織化を要請した。『ゴラレンフォルク――裏切りの物語』の著者ヴォイチェフ・シャトコフスキによれば、戦前からポドハレ地方で工作活動を行っていたドイツのエージェント、ヴィタリス・ヴィーデルとともに山岳民への宣伝工作を行ったクシェプトフスキらは、次のように語っていたという。
「それはヴァヴェル城における衛兵であり、なかんずくポーランド元帥ユゼフ・ピウスツキの墓を守るものとなるだろう」

ヴァツワフ・クシェプトフスキは、山岳民による親衛隊(SS)部隊の設立を夢見ていた。
こうした保証と、高給で安全な仕事というビジョンに惹かれてクラクフへ向かったのは、わずか6名の志願者だけであった。彼らは当初3週間、ドイツ人が経営するホテル「ポト・バラヌミ」で運搬夫や清掃係として働いた。その後、本人たちに何の相談もないまま制服を着せられ、親衛隊第8「トーテンコップ」連隊に編入されたのである。
どうやらヒトラーの「黒い親衛隊」での勤務は山岳民の気質に合わなかったらしい。数ヶ月後、この部隊の隊列に残っていたのはわずか2名のみ。他の者は脱走するか、医師の診断書を手に入れて除隊していった。
ご覧のとおり、山岳民を親衛隊部隊へ勧誘する最初の試みは完全な失敗に終わった。しかしこの結果によって挫折することはなく、ましてやポドハレで活動する協力者たちが諦めることはなかった。
東部戦線の苦戦を受け、再び浮上した「山岳民武装親衛隊軍団」構想
山岳民による親衛隊部隊創設への次のアプローチは、ドイツ軍が東部戦線で甚大な損害を出し始めた後に行われた。早くも1942年夏にはザコパネやノヴィ・タルグで「山岳民軍団」への参加を呼びかける動きがあったが、今回も反応は極めて薄かった。

テオドール・アイケが親衛隊「トーテンコップ」部隊の隊員に語りかける様子。ヴァヴェルでハンス・フランクの警護にあたった6人の山岳民は、この部隊の第8連隊に所属していた。
そこで話題が再び持ち上がったのは同年末、いわゆる「ケンカルタ」(山岳民族証明書)の配布キャンペーンが実施された頃である。これは「山岳民族」(ゴラレンフォルク)への帰属を証明する文書だった。興味深いことに、当初山岳民たちは、ちょうどその時期に編成されつつあった武装親衛>武装親衛隊ウクライナ擲弾兵師団「ガリツィーエン」に集合することになっていたのだ!
それがうまくいかないと判明すると、協力組織の山岳民委員会は独立した武装親衛隊山岳民軍団の編成に乗り出した。ドイツ側の計算では、なんと1万人もの山岳民がここに志願するはずだったのである。
シャトコフスキの記述によれば、ポドハレ出身の将来の親衛隊員を募集するため、10人の勧誘員が地域一帯を巡り、地元の若者たちに働きかけたという。もちろん、潜在的な志願者たちには「山のような金」が約束された――国内での高給の勤務、ドイツ本国(ライヒ)への強制労働徴用からの免除、そして刑務所や強制収容所にいる親族の解放などである。
山岳民から親衛隊員は生まれなかった
さて、この勧誘活動の成果はどうだったのか。これまた華々しいものとは言えなかった。さまざまな資料によれば、1943年1月8日、ザコパネのホテル「モルスケ・オコ」の募集委員会のもとに現れた「志願者」は300~400名程度であった。健康診断の結果、この人数はさらに大きく減少した。親衛隊への入隊を望んだ者の一部は、単に健康状態が基準に達していなかったのだ。それでもドイツ側は頑固にも山岳民の親衛隊員化を諦めようとしなかった。残った者――資料によれば約216名の志願者――は、戦前のルブリン県に置かれたトラヴニキの親衛隊訓練キャンプへ送られることになった。
ここで強調しておきたいのは、「志願者」の勧誘とその後の新兵輸送が、かなり特異な形で進められたという点である。山岳民たちは完全に酔いつぶされ、その状態でザコパネ駅から出発する列車に無理やり放り込まれたのである。

ラトビア親衛隊軍団の兵士たち(1943年11月のパレードにて)。ドイツは山岳民にもこのような制服姿を期待したが、当の山岳民たちはまったく乗り気ではなかった。
その結果、正気を取り戻した山岳民たちのほぼ全員――約200名――が、山岳民軍団での勤務など御免だと主張し、マクフ・ポドハランスキ近郊で走行中の列車から飛び降りた。その後しばらく身を隠さねばならなかった者もおり、捕まった者は大抵、ドイツ本国への強制労働に送られた。中には強制収容所行きとなった者さえいた。

最終的にトラヴニキまでたどり着いた山岳民は、わずか12名! おまけにこの生き残りたちは、最初の機会にそこで訓練を受けていたウクライナ人たちと喧嘩を起こしてしまった。結局、その場に残ったポドハレ出身者はごくわずかであった。名前が確認できるだけでも5名いる。マルジェツ、スレヤ、カルコシュ、ミトコヴィチ、ドゥダである。残りは逃げ去った。
ドイツ側の公式記録
やや異なる経緯が、総督府の親衛隊及び警察高等指導者フリードリヒ・W・クリューガーによって報告されている。1943年4月5日付で親衛隊本部長ゴットロープ・ベルガーに送られた手紙の中で、彼は次のように書いている。
「最後の確約によれば、410人の山岳民が前線での戦闘に参加するため武装親衛隊への加入の用意があるとのことであった。しかし徴募委員会の前に現れたのはわずか300人であり […]、適役と認定されたのは154人だけであった。適役と認められた者たちはトラヴニキのキャンプへ送られた […]」
「彼らは特に労働収容所の看守として使用される予定であった。トラヴニキに到着した『志願者』は140人にとどまり、親衛隊は21人を即座に解放せざるを得なかった […]。さらに88人の山岳民が短縮訓練の期間中に解放された。 […] 19人の山岳民が逃亡し、 […] 最終的にキャンプに残った山岳民は12人であった」

結局のところ、山岳民たちはヒトラーの「黒い親衛隊」で仕えることをまったく望んでいなかった。そして武装親衛隊「ガリツィーエン」師団のウクライナ人たちとも、そりが合わなかったのである。
事件全体を総括したクリューガーの言葉は興味深い。彼はこう明言している。
「山岳民はポーランド人と何ら変わらない。むしろ我々の3年半にわたる観察に基づけば、ポーランド人よりも劣ると評価されるべきである。 […] 総督府において山岳民を看守にすらできない以上、彼らを武装親衛隊に組み込む試みは断念されたい」
こうして、ドイツ当局とヴァツワフ・クシェプトフスキら協力者たちによる数年にわたる努力にもかかわらず、山岳民武装親衛隊軍団は何ひとつ実現しなかった。おそらく、山岳民の血管には「ゲルマン」の血などほとんど流れていなかったのだろう……。
出典:
- ヴォイチェフ・シャトコフスキ『ゴラレンフォルク――裏切りの物語』Kanon出版、2012年