歴史物語

アーリア共和国という構想――1863年1月蜂起は人種差別主義だったのか?

一見突飛に思えるこの問いだが、マルチン・ヴォルニェヴィチ(Marcin Wolniewicz)の研究成果を踏まえれば、決して荒唐無稽なものではない。ポーランド科学アカデミー所属の歴史家である彼は、ポーランドの独立宣伝において人種に基づく論拠がきわめて重要な役割を果たしていたことを実証した。アーリア人種に言及した主張も、その例外ではなかった。

蜂起を支えた「人種理論」

1863年の一月蜂起の時期、こうした人種論を積極的に展開したのが、歴史家にして民族誌学者のフランツィシェク・ヘンリク・ドゥヒニスキ(Franciszek Henryk Duchiński、1816~1893)である。彼は著書の中で、ポーランド人とルテニア人(現在のウクライナ人およびベラルーシ人の祖先)は同一のアーリア人種に属し、その共通性を基盤としてかつてポーランド・リトアニア共和国という国家を築き上げたのだと主張した。

一方、モスクワ(この学者はロシアという誇らしい名称を認めようとしなかった)には、トルコ人やモンゴル人といったアジア諸民族と共通する「トゥラン人種」が住むとされた。両人種間の明白な違いは、当然ながら、ロシア語とルテニア語の「偶然の」類似性をはるかに上回るものであるはずだ、というわけである。

科学的装いをまとったプロパガンダ

一月蜂起を指導したポーランド政治エリートには、明確に定められた――とはいえ空想的な――目標があった。それは、分割以前の国境線の範囲でポーランド・リトアニア共和国を復興させることだった。復興事業には西欧列強の協力が必要であり、そのためには、共和国の再建が単に必要なだけでなく正当なことでもあると列強を納得させなければならなかった。しかし1860年代当時、それは容易な仕事ではなかった。

アーリア共和国という構想――1863年1月蜂起は人種差別主義だったのか?

フランツィシェク・ドゥヒニスキ。愛国者であり、そして人種差別者でもあったのか?

当時のヨーロッパでは、「国民国家の国境は民族的区分と一致すべきだ」という考え方が次第に支持を広げつつあった。ロシア側の宣伝工作はこれを巧みに利用し、リヴィウからウラジーミル、スーズダリに至る旧キエフ・ルーシの諸地域は言語的・文化的に一体であると論じた。この解釈によれば、ポーランドはルテニア人を抑圧してきた存在であり、後にロシアが彼らを解放したことになる。

そこで西欧、とりわけフランスで活動するポーランドの外交官やジャーナリストたちは、民族的区分は二次的な問題にすぎないと訴えた。本当に重要なのは、根本的な違い――すなわち人種上の違いなのだ、と。このような枠組みで事案を提示することで、1772年の国境線における共和国復興は科学的な根拠を獲得することになった。それは、単一人種による国家の再建への一歩として位置づけられたのである。

ポーランド対ロシア――「人種紛争」という構図

西欧列強が一月蜂起への対応を検討していたさなかの1863年5月、パリで二つの著作が刊行された。いずれも人種論を用いて、ルテニア人地域に関するポーランドの要求を正当化する内容だった。

アーリア共和国という構想――1863年1月蜂起は人種差別主義だったのか?

エマニュエル=アンリ=ヴィクトゥルニャン、ノアイユ侯爵

第一の著作の著者は、ドゥヒニスキに着想を得たフランス人ジャーナリスト、ヴィクトル・ドゥ・マルス(Victor de Mars)である。マルチン・ヴォルニェヴィチは彼の見解を次のように要約している。

彼はドニエプル川を、スラヴ世界と「異質なチュード系、フィン系、ウラル系の世界」とを隔てる境界線として指摘した。(…)モスクワ(…)は血縁関係にあるモンゴル人の精神的影響下に屈したが、ロシアの場合に同化はあり得なかった。(…)したがってポーランド・リトアニア連合は自発的な結合であり、モスクワによる征服とは本質的に異なるものである。

同様の見解は、エマニュエル=アンリ=ヴィクトゥルニャン・ノアイユ侯爵(Emmanuel-Henri-Victurnien, Marquis de Noailles)によっても表明された。彼の著書『ポーランドとその国境』は、ポーランド外交官の依頼により英訳され、イギリス外務大臣らにも贈呈されている。ヴォルニェヴィチは侯爵の意見も次のようにまとめている。

ドニエプル川の線こそが「人種の相違に基づくアジアとヨーロッパの論理的な境界線であり、ウラル山脈に国境を置く近代地理学の区分は恣意的なものだ」。なぜなら「ウラル山脈の両側に住むのは同一のアジア人種だから」である――彼はそう論じたのである。
アーリア共和国という構想――1863年1月蜂起は人種差別主義だったのか?

この記事は『歴史評論』(Przegląd Historyczny)掲載の論文に基づいている。

このフランス人学者の見解では、モンゴルの侵攻がヴァリャーグ(ノルマン人)支配によって生じたスラヴ圏内の分裂を解消し、ルテニア人がポーランドのスラヴ同胞と結びつく道を開いたことになる。他方ロシアは、ヴォルニェヴィチの記述によれば、「アジア人種に属し、アジア系言語を話すウラル系部族」の土地で発展を遂げたという。

こうしたポーランドの人種宣伝が、純然たる政治的動機に基づくものであることは、誰の目にも容易に見て取れた。それにもかかわらず、西欧には一定の支持者が現れた。ただし、蜂起の運命に影響を与えるにはあまりにも少数であった。

出典

マルチン・ヴォルニェヴィチ「『モスクワはモスクワたらしめよ』――一月蜂起(1863~1864年)のポーランド宣伝における人種言説」、『歴史評論』第104巻(2013年)第4号、659~680頁。

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