ローマはイベリア半島での軍事作戦を余儀なくされました。第二次ポエニ戦争は、ローマにとって容易に勝てるかに思われました。帝国に挑んだのはハンニバルでしたが、ローマが軽んじた指揮官は彼だけではありませんでした。
戦争への道
第一次ポエニ戦争の終結後、ローマに敗れたカルタゴは、ヨーロッパにおける自国の影響力を手放すつもりはありませんでした。ハミルカル・バルカはいち早くイベリア半島へ派遣され、数年のうちに南岸と東岸を征服しました。ローマが当初これらの動きに反応しなかったのは、定められた貢納金が期日どおりに国庫に納められていたこと、さらにローマがガリア方面の活動に忙殺されていたためです。しかし、この状況はまもなく変わることになります。
紀元前221年、ハンニバルはカルタゴ領ヒスパニアの司令官に就任しました。同年、ローマ使節団がハンニバルのもとを訪れ、「サグント市を攻撃すれば戦争になる」と警告します。なんと皮肉な要求でしょう。その直前、サグント側こそがカルタゴと同盟していた部族の一つを攻撃していたのですから。
こうした状況下で、交渉の余地などあるはずもありませんでした。翌紀元前219年、ハンニバルはサグントを包囲し、その翌年、ローマはカルタゴに宣戦布告しました。ローマは第一次ポエニ戦争で弱体化した相手への速やかな勝利を確信していました。自軍の優位を疑わなかったローマ人はこの戦争を軽く見ており、ガリアでの作戦時の半分ほどの兵力しか戦場に投入しなかったのです。
ハンニバルは、艦隊の再建は不可能であり、二正面作戦で敵を打ち破ることはできないと悟っていました。そこで彼が選んだのは、陸軍でアルプスを越えてイタリアへ侵入し、ローマの同盟諸都市に反乱を促すという大胆な戦略でした。一方、イベリア半島には紀元前218年にローマ軍が派遣され、これがハンニバルの背後を断つことになったのです。

カルタゴ軍は連戦連勝を重ねてローマへ迫りました。しかし有名なカンナエの戦い(紀元前216年)の後、ローマは軍事戦略を攻勢へと転換します。ハンニバルは防御態勢に追い込まれ、スペインからの援軍を待つほかありませんでした。ところが、4個のローマ軍団が同地域で活動していたため、援軍はついに到来しませんでした。
エブロ川流域での戦局の展開は、やがて大スキピオ(スキピオ・アフリカヌス)の偉大な成功へとつながります。彼の指揮のもと、ローマ軍は紀元前209年にカルタゴ・ノウァ(新カルタゴ)――ポエニ勢力の拠点であり武器庫でもあった都市――を攻略しました。紀元前206年末までにカルタゴ軍は現在のスペインにあたる地域から駆逐され、紀元前202年のザマの戦いでハンニバルの軍はついに敗北し、戦争は幕を閉じました。
新たな属州の誕生
第二次ポエニ戦争の結果、ローマはイベリア半島でのさらなる行動に乗り出し、最終的にここにローマ属州を設立することになります。しかし、それは紀元前16年頃まで続く長いプロセスでした。第二次ポエニ戦争は、ローマがこの地で戦い続けることになる長い戦乱の序章にすぎなかったのです。
支配確立の次の段階は、現地共同体の反乱鎮圧でした。戦争中にハンニバル側についた諸民族は反逆者とみなされ、その領土を迅速に掌握するのは自然な流れといえました。
さらに、放置できない開かれた国境線の存在が、以降の行動を決定づけました。その結果、紀元前197年、半島の領域に二つのローマ属州――近ヒスパニア(ヒスパニア・キテリオル)と遠ヒスパニア(ヒスパニア・ウルテリオル)――が設置されました。しかし、ローマのイベリアにおける野望はこれで終わりではありませんでした。
各属州に駐屯する軍団と定期的な貢納のおかげで、相対的な平穏が保たれていました。現地の共同体は当初、カルタゴのくびきから解放されたことを喜び、多くは伝統を守り続け、独自の貨幣まで鋳造していました。
ルシタニア戦争
紀元前2世紀に入ると、征服された諸民族の自治はほとんど尊重されなくなり、搾取は苛烈さを増していきました。好戦的な部族たちはようやくローマによる占領の実態に気づき、反乱を起こすようになります。これにより武力介入とさらなる戦闘――今度はイベリア中央部と西部の諸民族との戦い――が引き起こされました。
ルシタニア人とケルティベリア人はタグス川以南の地域を略奪しました。ローマ軍との最初の武装衝突は紀元前194年、南ヒスパニア属州への襲撃からの帰還途中に発生しました。その後数年間も戦数年間も戦闘が続き、紛争は相対的な均衡状態を保っていました。

転換点は紀元前155年に訪れます。勇敢なルシタニア人たちは公然と戦争を始め、それは極めて流血の多いものとなりました。この戦いを一時的に終わらせたのが属州総督セルウィウス・スルピキウス・ガルバでした。紀元前150年、彼は反乱者たちに取引を持ちかけます。「攻撃を止めるなら、耕作に適した肥沃な土地を与える」というものでした。ところが協定が結ばれた直後、総督は彼らを虐殺するよう命じたのです。
無敵の指導者ウィリアトゥス
虐殺から生き延びた者はわずかでした。そしてローマにとって不幸なことに、次のルシタニア蜂起を率いることになるウィリアトゥスが生き残っていたのです。彼はハンニバルにも匹敵する指導者であることが証明され、彼の指揮する反乱は10年以上も続きました。ウィリアトゥスの活躍と巧みな戦略により、ローマは遠ヒスパニアへ4度も軍を送り込む羽目になりました。
戦闘は極めて激しく、消耗の多いものでした。総督は軍も属州も失わないために、講和によって切り抜けるしかありませんでした。しかし、この講和は後に「屈辱的」と宣告され、破棄され、戦闘は再開されます。もしローマの次なる陰謀がなければ、歴史はどう変わっていたのでしょうか。
裏切りによる勝利
次の和平交渉は紀元前139年に行われました。ウィリアトゥスは停戦条件を取り決めるため、最も信頼する3人の部下を属州総督のもとへ送りました。ところが使者たちはローマに買収され、帰還すると眠っている指揮官の喉を掻き切ったのです。

ウィリアトゥスの後を継いだのはタウタロスで、彼がついに戦争を終結させました。紀元前136年、ローマの条件で平和が成立しましたが、ルシタニア人が得られたのはごく狭い土地だけでした。しかし、ウィリアトゥスのような指導者が現れなかったにもかかわらず、ローマがイベリアで相対的な安全を実感できるようになるまでには、さらに1世紀を要したのです。
イベリアの諸民族はその後も略奪攻撃を続けました。紀元前61年、ユリウス・カエサルが遠ヒスパニア総督に就任します。彼は現地の共同体に対し、丘の上の要塞化された集落から平地へ移住するよう求めました。この拒否こそが、半島でのさらなる軍事行動の口実となったのです。
イベリアの征服がついに完了したのは皇帝アウグストゥスの時代でした。彼は紀元前16年頃、この地域に3つの新しいローマ属州――タラコネンシス、ベティカ、ルシタニア――を設立しました。国境が確定すると、新しい行政単位の安定化と、現地共同体とローマ文化の緩やかな融合という長いプロセスが始まっていきます。
参考文献
- Curchin L. A., Roman Spain: Conquest and Assimilation, London / New York, 1991.
- Ziółkowski A., History of Rome, Poznań, 2008.