1944年10月7日、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の歴史において最大規模となる囚人の反乱が勃発した。ゾンダーコマンド(特別作業班)のユダヤ人たちは火葬場の一つに放火して大破させ、石や斧、ハンマーで武装親衛で武装親衛隊(SS)の隊員に立ち向かった。脱走に成功した者もいたが、その代償はあまりにも高く、約250人が命を落とした。この突発的な蜂起は、どのようにして生まれたのだろうか。
その日は土曜日、10月7日のことだった。穏やかで晴れ渡った一日になるはずだった。しかし朝、恐るべき知らせが届く。その日のうちに、SSが再びゾンダーコマンドの中で「選別」を行うというのだ。もちろん例によって、SSは「選ばれた者たちは別の部門へ移されるだけで、悪いことは何も起きない」と告げた……。
この告知の直後、反乱計画の指導者たちは最後の会合を持った。当時の緊張と混乱がどれほど深刻だったかは、そこで起きた分裂からも窺い知れる。囚人たちは再び二派に割れたのである。「選別」の対象は第4火葬場と第5火葬場のみで、それ以外の場所は見逃されるはずだった。当時のゾンダーコマンドには「国内軍(ホーム・アーミー)がいつ収容所を解放しに来てもおかしくない」という期待が残っており、おそらく第2・第3火葬場の班はここで離反したのだろう。彼らは選別をやり過ごし、従来の計画を守ることを決めたのである。
こうした状況については、歴史家イーゴリ・バルトシックが言及している。彼の見解によれば、指導者たちの間では次のような取り決めが交わされていたという。「……選ばれた者がSSと戦う間は、彼らは自力で切り抜けるしかない」。これはつまり、反乱の指導者たちは手元にある手榴弾の使用を排除していたことを意味する。爆発音は陰謀の存在を露呈させてしまうからだ。だが、そんな筋書きに本当に意味はあったのだろうか。レヴェンタルはこうした迷いについて記しているものの、詳細は分からないと正直に認め、ソ連人の同志たちはすでに独自の決断を下していたと述べている。
攻撃開始の合言葉
では、ソ連人の捕虜たちはどうしていたのか。マイダネクから移送されてきた19人の捕虜のうち、9人は日頃から第2火葬場で働き、残りは第3火葬場に配属されていた。「同志シオム」をはじめとする面々はどうなったのか。彼らこそ反乱の主要な推進力であるはずで、「ギリシャ人」とともに爆薬の調達を担っていたのも他ならぬ彼らだった。そして「どんなことがあっても攻撃を仕掛ける」と宣言していたのも彼らである。今はただ待っていた。彼らが何を感じていたのか、想像することさえ難しい。午後1時を十数分過ぎたころ、SSを乗せた車両が第4火葬場の前に到着したのである。
「Antreten zum Appell!(整列して点呼に応じろ)」と命じられた。何が行われようとしているのかは明白だった、とレオン・コーエンは記している。点呼に並んだのは合計316人の囚人。圧倒的多数はハンガリー出身者で、ギリシャ人はごくわずかだった。SSはその中から、火葬場を常に稼働可能な状態に保つ責任を持つ数十人を選び出し、広場には286人が残された。そして「選別」が始まった。
点呼に並んだのは合計316人の囚人。圧倒的多数はハンガリー出身者で、ギリシャ人はごくわずかだった(イメージ写真)。
広場にいた全員が、それが何を意味するのかを知っていた。「ゾンダーコマンドのギリシャ人たちはこの命令を聞くなり、直ちに攻撃の合言葉を出した。これが反乱の始まりだった」とコーエンは続けている。彼自身がギリシャ人だったため、同胞に焦点を当てたのは自然なことだろう。しかし、最初に打って出たのは彼らではなかった。絶望的な勇気を見せたのは、ソスノヴィエツ出身の54歳、ハイム・ノイホフだった。通りかかったSS隊員に死を宣告された彼は、隠し持っていたハンマーを手に取り、相手に飛びかかったのだ。そして叫んだ。「万歳!」と。
それが攻撃の合言葉となった。この瞬間、他の者たちも攻撃を開始した。フィリップ・ミューラーの記憶は少し違っている。コーエンとは異なり、彼は現場に居合わせ、列に並んで番号を読み上げられる一部始終を目撃していた。自分の番号が最短だったため、恐怖で身動きできずに最後まで見ていたという。やがてSSは、呼ばれた者のうち十数人が欠けていることに気づいた。囚人が火葬棟に隠れていると疑って建物へ近づくと、頭上に石が降り注いだのである。
「ドイツ人12人を負傷させた」
やがてSSは発砲を始めた。最初は無差別射撃だったが、ほどなく態勢を整えていった。彼らの怒りは凄まじかったが、謀議の参加者たちもまた兵士だった。全員とは言えないまでも、少なくとも一部は何をすべきか心得ていたはずだ。「彼らは英雄的な抵抗を見せ、広場から引き出されることを許さなかった。大声を上げ、ハンマーや斧で衛兵に襲いかかり、何人かに傷を負わせた。残りの者も手当たり次第に殴り、石を投げつけた」(……)。それはほんのわずかな出来事だった。機関銃と手榴弾で武装したSSの一個分隊が到着する。「我々の仲間はすべてが失われたのを見て取ると、火葬場に火を放った。狂乱と銃声が飛び交った」——とレヴェンタルは書いている。
だが、当時彼自身は広場にはいなかった。ひとつ隣の第3火葬場にいたのである。この戦闘を実際にこの目で見て、しかも生き延びて後に証言を残した唯一の証人は、ミューラー、そしてアブラハム&シュラーマのドラゴン兄弟、ヘンリク・タウバーである。
本稿は、ポズナン出版社(Wydawnictwo Poznańskie)から刊行されたばかりのミハウ・ヴィチック著『復讐(Zemsta)――絶滅収容所における忘れられた蜂起:トレブリンカ、ソビボル、アウシュヴィッツ・ビルケナウ』からの抜粋である。
「ドイツ人を12人負傷させた」とシュラーマは報告している。「おそらく2、3人は死亡しただろう」。外で戦闘が続く中、囚人の一部は建物内へ駆け込んだ。そこには隠された武器庫があり、爆薬が眠っていた。最も手っ取り早いのは、寝具のマットレスに火を放つことだった。点火を担ったのはヨッセル(ワルシャウスキー?)だとされる。アイゼンシュミットによれば、ここでの指揮を執っていたのは彼だからである。「彼が最初に火をつけた。まず寝台、マットレス、屋根の小屋組みに火が放られたはずだ。囚人たちが暮らしていた場所だ。あれが反乱開始の合図だった」。
失うものなど何もなかった
反乱者の一部は2階へ駆け上がった。おそらくドイツ人たちはそこから反撃を始めたのだろう。効果はあったのだろうか。銃器に対して、石ころ——ナイフですら——に何ができるというのか。立てこもりは数分から十数分続いた。全員が戦闘に加わったわけではない。第5火葬場のカポ、シュロモ・キルシェンバウムはドイツ人を説得し、自分と配下の囚人たちが建物の外に出ることを認めさせた。おかげで約100人から120人の人命が救われた。長くは続かなかったが……。その一方でシュラーマは、まるでお笑い草のように別の行動をとっていた。30丁の手榴弾にありつけなかったのか、それともありつく気がなかったのか! 彼は火葬場とは別の方向へ逃げ出したのである。
「壁の中に隠しておいた爆薬が爆発して、ドイツ人に組織の存在が知られてしまうのが怖かった」幸いにも木造の屋根が崩落し、その下の居住区画を埋めてくれた。おかげでSSは何も発見できなかったという。彼は一体何を語っているのだろうか?! SSが気づかないはずがない。爆発はむしろ、彼らの身をもって味わうべきものだったはずだ。痛みはできる限り大きくあってほしい! ドラゴンの証言は、囚人たちの分裂を裏付けるものなのだろうか。それとも、単に状況に呑まれてしまっただけかもしれない。何しろ彼も弟も民間人だったのだ。
アウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室で虐殺されたハンガリー系ユダヤ人の遺体を焼却処理するゾンダーコマンドのメンバーたち
「どちらへ向かえばいいのか分からなかった」とアブラハムは説明する。「何より大事なのは逃げることだった。ドイツ人は発砲を始め、何人かに命中した。それでも僕らは走り続けた。出口は実質的に二つだけだった。第5火葬場の方へ向かうか、キャンプの通りへ向かうか」。
つまり、陰謀に加わった者の一部にとって、運命はすでに封印されていたように思われる。冷酷な計算が勝ったのである。このとき第4火葬場の中庭で起きていたのは、まだ本当の意味での蜂起ではなかった。ドラゴンにはそれが分かっていた。仲間たちの悲惨な状況を悟りながらも、彼は手榴弾のもとへは向かわなかった。すべてを置き去りにして逃げ出したのだ。ただ、別の日に再び戦うために。だが、全員がそうしたわけではない。逃げなかった者もいた。戦いたくてたまらない者もいた。何しろ彼らには武器があった。彼らはノイホフと同じほどの決意を固めていたのだ。あるいは、ドイツの歴史家アンドレアス・キリアンが示唆するように、彼らにはもう失うものが何一つ残っていなかったのかもしれない。愛する人も、故郷も、人生の意味さえ、すでに奪われた後だった。彼らに残されていたものが、他に何だというのだろう?
出典:
本稿は、ポズナン出版社(Wydawnictwo Poznańskie)から刊行されたばかりのミハウ・ヴィチック著『復讐(Zemsta)――絶滅収容所における忘れられた蜂起:トレブリンカ、ソビボル、アウシュヴィッツ・ビルケナウ』からの抜粋である。