1920年代初頭、オクラホマ州タルサのグリーンウッド地区は、アフリカ系アメリカ人たちが数多くのビジネスを立ち上げ、目覚ましい成功を収めた土地でした。その繁栄ぶりから、この地区はやがて「ブラック・ウォール・ストリート(黒いウォール街)」と呼ばれるようになります。しかしその成功は永遠には続きませんでした。1921年5月、白人の群衆がグリーンウッド地区を襲撃し、悲劇の一日が訪れたのです。

タルサ人種虐殺は、アメリカにおける人種差別に基づく暴力の極端な例であるにもかかわらず、歴史の中では本来あるべきほど注目されてきませんでした。本記事では、ブラック・ウォール・ストリートの歴史、虐殺の背後にあった動機、そしてその文化的・人類学的な意義について考察します。
ブラック・ウォール・ストリートの誕生
グリーンウッド地区の創設者として名を残すのが、実業家のO・W・ガーリー(O. W. Gurley)です。彼は当初、タルサの西約130キロ(80マイル)にある土地を取得し、地元の学校の校長を務めながら、10年以上にわたり雑貨店を営んで成功を収めていました(CNBC)。

1905年、ガーリーはさらに40エーカーの土地を購入します。そこには、アフリカ系アメリカ人が自立して繁栄したいという強い願いが込められていました。彼はタルサの黒人コミュニティの発展を支えたいと考え、グリーンウッドでの未来を切り拓こうとしたのです。
好調に拡大するビジネス
住宅と商業の成長に伴い、グリーンウッドは瞬く間に成功を収めました。抑圧という枷(かせ)に縛られることなく、アフリカ系アメリカ人が夢を実現できる場所となったのです。ガーリーが確信していたグリーンウッドの将来性は、現実のものとなりました。
「1910年から1920年にかけて、タルサの人口はほぼ4倍の7万2,000人超に増加し、黒人人口も2,000人未満から約9,000人へと急増した」
アントワーヌ・ガラ(Antoine Gara)
同じく実業家のJ・C・ストラッドフォード(J.C. Stradford)は、ガーリーと協力してグリーンウッド地区の拡大に貢献しました。彼が建設したストラッドフォード・ホテルは、次のように語り継がれています。
「当時、54室のスイートルーム、賭博場、ダイニングルーム、ラウンジ、ビリヤード場を備えた、全米最大級の黒人所有ホテルでした。ストラッドフォードは白人タルサの最高級宿泊施設に匹敵する豪華さを目指してホテルを建て、それはグリーンウッドの隆盛を象徴する記念碑となりました。評価額は7万5,000ドル(現在の価値に換算すると100万ドル以上)」
アントワーヌ・ガラ(Antoine Gara)
グリーンウッドは、経済的な希望に満ちた土地でした。ジム・クロウ法の時代において、人種隔離が色濃く残る州の中で生き抜くために、グリーンウッドこそがアフリカ系アメリカ人にとって必要不可欠な存在だったのです。

グリーンウッドを襲った破滅
第一次世界大戦の混乱期においても、グリーンウッドは繁栄を続けました。しかし、当時の人種差別は避けられない現実でした。とりわけ、ジム・クロウ法が完全に施行されていた時代においてはなおさらです。タルサ虐殺がなぜ起こったのかを理解するためには、ジム・クロウ法の成り立ちと、それが当時どのように執行されていたのかを紐解く必要があります。

ジム・クロウ法とは?
ジム・クロウ法は1877年頃から始まり、奴隷解放後の人種隔離を維持する手段として機能しました。特に南部諸州では、白人と有色人種の公共施設を分離する法律が次々と成立しました。この制度によって、奴隷制に頼らなくてもアフリカ系アメリカ人を支配することが可能になったのです。
法律上、ジム・クロウ法は「分離すれども平等(separate but equal)」という建前を掲げていました。しかし、実際は真実から程遠いものでした。アフリカ系アメリカ人は投票権や不動産取得など、基本的な権利を否定されました。さらに白人たちは自らの手で法律を執行しようとし、白人至上主義団体は、どんなに些細な過ちであっても黒人を罰しました。黒人たちが抵抗すればするほど、刑務所送りからリンチまで、その報復は苛烈さを増していったのです。
時限爆弾――虐殺への道


グリーンウッドの成功は、一部の白人住民の羨望と憎悪を同時に煽りました。「黒人が自分たちよりも豊かに暮らしている」という事実は、人種差別が蔓延する社会において許容できないものとみなされ、地区全体を包む緊張は、爆発寸前の時限爆弾のような状態になっていきました。
1921年5月30日、ついにその引火点が訪れます。ダウンタウンで靴磨き職人として働いていた黒人青年ディック・ローランドが、エレベーター運転手の白人女性との接触をきっかけに暴行容疑で逮捕されたのです。センセーショナルな新聞報道が市民感情を煽り、翌5月31日から6月1日にかけて、武装した白人の暴徒がグリーンウッド地区になだれ込みました。

暴徒は約35ブロックにわたる地区を放火・略奪し、家屋や店舗、教会、病院、学校が灰燼に帰しました。公式記録では数十人、研究者の推計では最大300人前後が死亡したとされ、数千人のアフリカ系アメリカ人が家と財産、そして暮らしのすべてを失いました。かつて「黒いウォール街」と謳われた繁栄は、一夜にして消し去られたのです。
タルサ人種虐殺は、単なる突発的な暴動ではなく、制度的な差別と日常的な憎悪が積み重なった末の悲劇でした。グリーンウッド地区の物語は、抑圧の中でもコミュニティが築き上げた経済的自立と連帯の力を示すと同時に、その繁栄がいとも簡単に暴力によって奪われうることを私たちに突きつけています。この歴史を風化させず、次の世代へ語り継ぐことこそが、真の意味での教訓となるでしょう。