歴史物語

タソス・イサアク事件から25年――指名手配犯の一人は今や「占領政権」の閣僚

1996年8月2日、キプロス・オートバイ連盟の呼びかけに応えて、ヨーロッパ12か国から約200人のライダーが集結した。当時、ニコシアを除けばヨーロッパ最後の分断都市だったベルリンを出発した彼らは、キプロス島へのトルコ軍侵攻から22周年となる日に合わせて、占領下のキレニアを目指す車列を組んだのである。

タソス・イサアク事件から25年――指名手配犯の一人は今や「占領政権」の閣僚

一行は8月10日にキプロスへ到着し、現地の仲間たちと合流した。しかし、国内外からの圧力を受けたキプロス・オートバイ連盟は、キプロス島内での抗議行動を取り止め、8月11日日曜日の午前、マカリオス・スタジアムでメインイベントを実施することを決めた。

ところが、この決定に従わないライダーのグループが現れ、彼らは占領地域へ向かうことを強行した。その中の一人が、24歳のタソス・イサアクだった。警備のない軍事哨所を抜け、国連緩衝地帯――いわゆる「グリーンライン」へと進入したのである。キプロス警察は彼らを阻止できなかった。同じ頃、「アッティラ線」沿いには少なくとも1,000人のトルコ系住民が集結しており、その中にはトルコ本土から駆けつけた極右組織「灰色の狼」の支持者が数多く含まれていた。

ギリシャ系キプロス人の抗議者たちが緩衝地帯に入った瞬間から、状況は泥沼化していった(sansimera.grの報道より)。午後4時、今度はトルコ系住民の集団が緩衝地帯になだれ込み、棍棒や鉄製のナックルダスターを振りかざして抗議者たちを襲撃した。追われる友人を助けようとしたタソス・イサアクは取り囲まれ、「占領政権」の市民や警察官たちによって撲殺された。国連平和維持部隊(UNFICYP)のアイルランド人警官2人が救出を試みたものの、激昂した群衆の手から彼を奪い返すことはできなかった。

国連の報告によれば、タソス・イサアクはギリシャ系側から95メートル、トルコ系側からわずか32メートルの地点で息を引き取った。緩衝地帯で起きたこの大規模な衝突では、ギリシャ系キプロス人54人、トルコ系キプロス人17人、平和維持部隊要員12人が負傷している。

葬儀、そしてもう一人の犠牲者

タソス・イサアクの葬儀は8月14日、大勢の人々に見送られて執り行われた。第一子を身ごもっていた妻の姿は、まさに悲劇の象徴だった。さらに葬儀の後、怒りに駆られた従兄のソロモス・ソロムー(26歳)が「グリーンライン」の哨所からトルコ国旗を引き下ろそうとして、占領地域側からの銃撃によって命を落としたのだ。

国際手配された5人の容疑者

1996年11月22日、キプロス警察はタソス・イサアク殺害の容疑で、次の5人に対して国際逮捕状を発行した。

  • ハシュム・イルマズ――入植者で、MIT(トルコの情報機関)の元幹部
  • ネフェル・ムスタファ・エルグン――トルコからの入植者で、「占領政権」の警察官
  • ポラト・フィクレト・コレリ――ファマグスタ出身のトルコ系キプロス人
  • メフメト・ムスタファ・アルスラン――トルコ人入植者で、占領地域における「灰色の狼」の指導者
  • エルハン・アリクリ――旧ソ連圏出身のトルコ人入植者。2012年9月にキルギスで逮捕されたが、トルコの圧力によって釈放された。

そして驚くべきことに、このエルハン・アリクリは現在、北キプロスの「占領政権」において「エネルギー・経済担当大臣」を務めているのである。

娘アナスタシアへの誓い、そして国際司法の判定

1997年4月28日、当時のギリシャ外相テオドロス・パンガロスは、パラリムニで厳かに行われた洗礼式において、タソス・イサアクの娘の代父を務めた。娘にはアナスタシアと名付けられ、歌手ハリス・アレクシウは彼女のために特別に書き下ろした「ツバメの歌」を捧げた。

さらに2008年6月24日、欧州人権裁判所(ECHR)は、欧州人権・基本的自由保護条約第2条に基づき、タソス・イサアクの殺害についてトルコの責任を認定した。あわせて、遺族への金銭補償の支払いも命じている。

事件から四半世紀以上が経過した今も、容疑者の多くは裁かれぬままであり、遺族にとって正義の完全な実現は、依然として果たされぬままの課題であり続けている。