歴史物語

クラッススの死後、何が起こったのか?カルラエの戦いとその余波

ローム一の富豪として名を馳せ、第一回三頭政治の一員でもあったマルクス・リキニウス・クラッスス。その彼が、紀元前53年のカルラエの戦いでパルティア軍に壊滅的な敗北を喫し、命を落としたことはよく知られています。では、彼の死後には一体何が起こったのでしょうか。

惨めな最期と死後の侮辱

クラッススの死は、安らかなものではありませんでした。勝利したパルティア人は彼の遺体を損傷させ、生涯の強欲ぶりを嘲笑うかのように、溶かした黄金を彼の喉に流し込んだと伝えられています。

さらに、クラッススの首は切り落とされ、パルティア王オロデス2世のもとへ送られました。王はその首をメソポタミアの都市セレウキアで公開的に晒し、パルティアの勝利を内外に誇示したのです。

ローマの中東進出の終焉

クラッススの死は、単なる一人将軍の戦死にとどまらず、歴史の大きな転換点となりました。この敗北によって、ローマ共和国による中東地域への直接支配の道は事実上閉ざされることになったのです。

その後もローマは幾度となくパルティア領への征服を試みましたが、いずれもパルティア帝国に撃退され、成功を収めることはできませんでした。

ローマの戦略的転換

征服という野望を断念したローマは、方針を大きく転換します。以降のローマは、アルメニアに属国(同盟王国)を設立して緩衝地帯とし、東方国境の防衛強化へと重点を移していきました。

また、当時ローム最強の将軍と目されていたポンペイウス(グナエウス・ポンペイウス・マグヌス)は、コーカサス地方へ遠征を行い、パルティアとの国境線を安定させることに成功しました。

まとめ

クラッススの死は、屈辱的な形で飾られたその最期以上に、ローマとパルティアの勢力図を決定づける出来事でした。東方への拡張を断念したローマは国境の防衛路線へと舵を切り、両大国は長きにわたる対峙の時代へと入っていくことになります。