アジアの歴史

第二次世界大戦の歴史問題と戦後処理――なぜ日本とドイツの道は分かれたのか

時事問題をもっと深く理解したいと思い、筆者は改めて歴史の勉強を始めた。今回紹介するのは、同じ目的で書かれた『PRESIDENT』誌の「“儲かる”歴史」という記事である。現代史に関わる内容だったので、その要点を整理しながら考察してみたい。

ちょうど終戦記念日の時期ということもあり、今回は戦争について取り上げる。世界史(特に中国史)の話も含まれる。安倍首相は談話を発表したが、なぜあれほど混乱を招いたのだろうか。記事の内容を要約しつつ、その背景を見ていこう。

近世における日中の歴史的背景

現在の日中関係を理解するには、近世(特に後半期)の日中両国の歴史を押さえておく必要がある。そこで、日本の江戸時代、中国の明・清時代における政府の政策を探ってみよう。

  • 日本……地方の発展を歓迎 ⇒ 各藩は学校整備や経済振興に力を注ぐ
  • 中国(明・清)……地方の発展をむしろ脅威とみなし、あえて指導を行わない

このような政策の背景には、さまざまな要因が絡んでいると思われる。中国は伝統的に多民族国家であり、中央政府による地方統治が弱い傾向にあった。国内に有事が起きた際、周辺国や諸民族につけ込む隙を与えたくなかったのかもしれない。

近代化に失敗した理由もある。清王朝は最盛期を迎え、18世紀末には人口が3億人を突破した。その後も4億人以上まで増え続けたが、同時に人口過剰による自然破壊が災害を多発させた。この混乱が内乱を引き起こす。折しも西洋列強の侵略が重なり、これに対抗するため近代化を目指したものの、足元が不安定な清王朝ではその目的を達成できなかったのである。

個人的に中国史が好きな筆者としては、欧州側の被害者視点だけで語られることには正直なところ違和感がある。「そんなに弱い国だったのか?」といった感覚である。多少そうした個人的な見方も含まれているかもしれないが、調べた上で上記の説を紹介している次第だ。

一方、日本はどうだったのか。一般に地方が強くなると中央政府の支配力は低下すると言われるが、徳川幕府はその対策として、大名の家族を事実上の人質とする参勤交代の制度を採用した。おかげで地方の発展を歓迎する余裕が生まれたようだ。そしてこの地方の発展こそが、日本の近代化に大きく寄与したとされる。

鎖国時代においても、参勤交代の負担を軽減するため、実際には琉球(中国経由)やロシアと交易を行った藩もあった。代表格は薩摩藩で、遠方からの参勤交代でも他藩に比べれば財政的に余裕があったと言われる。

さらに、儒学(特に朱子学)は江戸時代の学問の一つであり、立身出世の手段の一つとなった。朱子学は、社会秩序の考え方が江戸時代の封建統治の理念と合致していたために採用されたものである。大雑把に言えば、徳川体制を正当化するイデオロギーのようなものを全国に広め、幕府に逆らわせないようにする意図があったようだ。実際、長きにわたってうまく機能した。このイデオロギーの浸透こそが、地方の発展を歓迎できた一因だったのだろう。

皮肉なことに、江戸後期になって朱子学が盛んに研究されるようになると、それは主君たる将軍の絶対視ではなく、天皇を尊ぶ思想へと変質し、明治維新の原動力となっていく。

いずれにせよ、この日中の違いは第二次世界大戦後も尾を引くことになる。中国は1978年の改革開放路線以降、本格的な近代化に着手し、近年は国内産業が大きく発展した。今日ではGDPは日本を逆転している。

第二次世界大戦の戦後処理

ドイツの戦後処理

戦争責任については日本とドイツがよく比較されるが、「責められる」ということは、それを問う相手が存在するということだ。その違いは、日本とドイツそれぞれを取り巻くパワーバランスにあると言われる。

まずドイツから見ていこう。ドイツの隣国の多くは、第二次世界大戦当時、主役級の強い発言力を持つ国々だった。さらに戦後は1949年までの占領期を経て領土が分断され、非常に弱い立場に置かれ、冷戦時代の最前線ともなった。こうした状況下で、1945年設立の国連や1949年創設のNATO(北大西洋条約機構)に参加できないことは致命的だった。隣国との和解は不可欠であり、ドイツは譲歩せざるを得ない状況にあったのだ。

日本の戦後処理

一方、日本の場合、主な相手はアメリカと中国である。戦後1952年まで、日本はアメリカ中心の連合国による占領下に置かれていた。

その間の近隣諸国の情勢といえば、1946年からの国共内戦(国民党対共産党)と、1950年からの朝鮮戦争である。国共内戦は1949年に現在の形で決着した。朝鮮戦争も東西陣営の代理戦争であり、いずれも民主主義対社会主義という対立が絡む戦いだった。

おそらくこうした混乱が、日本の戦後処理を遅らせることになった。1952年の日華平和条約(台湾との締結)、1965年の日韓基本条約、1972年の日中共同声明と、終戦から時間が経過していく。日本は時間とともに経済を含めて復興を遂げていった。当時の中国はソ連と対立しており、日本との円滑な関係改善が必要だったし、韓国でも1961年のクーデターで成立した朴正煕政権は不安定だった。これらは日本にとって好都合な材料となったのである。

こうした状況の中で、日本は戦後処理において有利な立場を取ることができた。そのような背景から、中国と韓国の双方に潜在的な不満が溜まっていた可能性があると言われる。加えて、近年は疑わしい面もあるものの、両国はかなりのスピードで発展を遂げてきた。当時とはパワーバランスが変化したことで、その不満が「歴史問題」として噴出することになったようだ。

まとめ

ほかにもさまざまな要因があり得るが、パワーバランスの説はかなり筋が通っているように思える。うまく言えないが、特に中国の場合、他国と張り合おうとすると足元がぐらつくばかりで、今までうまく立ち回れてこなかった、という印象を受ける。

近年の中国は急速な経済発展の真っ只中にあるので、場合によってはトーンダウンすることもあるかもしれない。いずれにせよ、今後のパワーバランスの推移が、歴史問題の行方を左右する大きな分かれ目になりそうだ。