ブッカー・T・ワシントン(Booker T. Washington)の思想は、アメリカにおける人種差別や人種隔離(セグリゲーション)を直ちに終わらせることはありませんでした。実際には、1915年に彼が亡くなった後も、人種隔離制度は数十年にわたってアメリカ社会に存続し続けました。
ワシントンの思想とその限界
ワシントンは、タスキージー師業学校(現・タスキージー大学)の創設者として知られるアフリカ系アメリカ人の教育者です。彼は1895年の「アトランタ妥協」演説において、即時的な市民権の獲得よりも、経済的自立と職業教育を通じた段階的な地位向上を重視する立場を示しました。
この現実主義的なアプローチは当時の白人主流社会から一定の支持を受けましたが、一方で法的な人種差別の撤廃には直結せず、ジム・クロウ法に代表される分離政策はその後も強化されていきました。
死後も続いた人種隔離の時代
ワシントンの死後も、「分離すれども平等」という原則に基づく人種隔離は学校、交通機関、公共施設などあらゆる場面で維持されました。南部諸州を中心に差別的な法制が根付き、アフリカ系アメリカ人は投票権や平等な教育の機会から長く排除され続けたのです。
公民権運動による転換点
状況が大きく動き始めたのは、1950年代から1960年代にかけての公民権運動です。1954年のブラウン対教育委員会裁判での人種分離教育違憲判決をはじめ、モンゴメリー・バス・ボイコット、マーティン・ルーサー・キング牧師率いる非暴力抗議運動などが展開されました。
こうした運動の結果、1964年の公民権法および1965年の投票権法が成立し、法の上での人種隔離はようやく解体への道を歩み始めました。
まとめ
ブッカー・T・ワシントンの思想は、人種差別の即時終焉をもたらすものではありませんでした。真の変革が実現したのは、彼の死から約40年後、激しい公民権運動を経てのことだったのです。