ヨーロッパの歴史

ゴミを電気と熱に変える:ハンブルク、欧州大陸初の焼却施設の歴史

19世紀のハンブルクは人口が急増し、それに伴って深刻化したのがゴミ処理の問題だった。そして1896年1月1日、ハンブルクは欧州大陸で初めてゴミ焼却施設の運転を開始し、新時代の幕を開けた。

文:Oliver Diedrich(NDR.de)

「陶器の破片、ブリキ缶、クリノリンの破片」

実は早くも1892年には、市参事会が「ゴミ焼却炉の建設」に関する申請を行っていた。しかし当時は委員会に付託され、話は先送りとなった。というのも、当初は多くの市民がゴミをただ燃やすことに反対していたからだ。

反対者の一人が、何世紀にもわたって都市住民のゴミを畑の肥料として喜んで受け入れてきた農民たちだった。しかし、19世紀後半の急速な工業化により、この方法は次第に問題視されるようになった。ハンブルクのゴミ処理の歴史を描いた著書『Pütt un Pann'n』の中で、ヒルデガルト・フリリングとオラフ・ミッシャーはこう指摘している。ハンブルクに山積みになるゴミの量はあまりに膨大で、農業では到底処理しきれず、中間貯蔵のための埋立地が必要になっていたのだ。

さらに、19世紀半ばにハンブルクへ下水道が整備されて以降、都市のゴミに含まれる排泄物の割合は大幅に減少した。つまり、肥料として使える材料は減り、「畑を傷めるのに適しただけのもの」――陶器の破片、ブリキ缶、クリノリンの骨組み、バネ、壊れた櫛など――が増えていった。それでも多くの農民は焼却に反対し、安価な肥料を手放したくなかったのである。

イングランドの初期焼却炉が抱えていた問題

この手法への別の反対論者たちは、イングランドでの失敗例を引き合いに出した。ドイツより数十年早く工業化が始まったイングランドでは、1870年代から複数の都市でゴミ焼却が行われていた。しかし当初の設備は未成熟で、悪臭や有毒な排気ガス、灰の降下などにより大きなトラブルが起きていたのだ。

コレラ流行がハンブルクの意識改革を促す

しかし1890年代に入ると技術は進歩し、排出量がはるかに少ないとされるプラントがイングランドで建設されるようになった。一方のハンブルクでは1892年、ゴミ処理問題を先延ばしにできないことを市当局に痛感させる悲劇が起こる。コレラの流行である。わずか数週間のうちに1万6000人以上の市民が感染し、その半数以上が死亡した。コレラが急速に広まった原因は、劣悪な衛生環境にあることは明らかだった。帝国政府から派遣された防疫の専門家ロベルト・コッホは、ゲンゲフィアテル(Gängeviertel)などの地区を視察した後、「自分がヨーロッパにいることを忘れてしまう」と語ったと伝えられている。

1894年、焼却施設の試験運転開始

コレラ流行が収まるとすぐに、市参事会はゴミ焼却施設(MVA)建設の新たな申請を提出した。ところが意外にも、抵抗は依然として強かった。9か月後にようやく議員たちが賛成に回る。その後は建設が急ピッチで進み、1894年には最初の焼却炉が据え付けられ、試験焼却が始まった。ハンブルクでは、イングランドのホースフォール式炉をモデルにゴミを焼却することが決まった。温風を供給することで従来の炉より高い燃焼温度を実現でき、効率が上がり、煙も減る仕組みである。

1896年、本格操業開始:発生したエネルギーは施設の運転に活用

施設全体の費用は約50万ライヒスマルク。1896年1月1日、市南東部ブルラーデイクの新施設が本格的な操業を開始した。蒸気によって得られたエネルギーは、照明やクレーン、送風機といった施設自体の運転に使われた。焼却後に残るスラグは冷えるとガラスのように硬くなり、道路建設に利用された。鉄分は磁石でスラグから分離され、売却された。もう一つの燃焼生成物はフライアッシュ(飛灰)だ。「天井や壁の空洞に充填材として使えば断熱効果があると特に高く評価された一方、一部は煙突から大気中へ放出されてしまった」と、ハンブルク市清掃局が操業100周年を記念して発行した記念誌は述べている。さらに同誌はこう続ける。

焼却室は2層構造だった。上部の炉床では「タンマー」と呼ばれる作業員が働き、下部の作業員が前回焼却分の副産物であるスラグを取り除いた後、投入口へゴミを投げ入れた。合計36基の炉セルが、約50万人の住民の家庭ゴミを焼却したのである。
(Anja Nabasik、Adolf Nottrodt『ハンブルクにおけるゴミ焼却100年』発行:Stadtreinigung Hamburg、1996年)

「こちらでは除染、あちらでは汚染!」

焼却施設による環境への影響はかなり大きかったようだ。ハンブルクのゴミの歴史を綴った『Pütt un Pann'n』は、雑誌「Norddeutscher Gastwirt」の記事から次の一節を引用している。

「願わくは、この施設から出る煙が周囲にまき散らす疫病のような悪臭を忘れないでほしい。風向きによって煙が自宅の方へ流れてくると、住民は窓を開けることさえできなくなる。こちらでは除染、あちらでは汚染! 降り積もる煙には鋭い灰の粒が大量に含まれており、広範囲がびっしりと覆われ、庭の野菜は食べられなくなってしまった。」
(Hildegard Frilling、Olaf Mischer『Pütt und Pann'n ハンブルク家庭ゴミ処理の歴史』1994年)

初年度は4万5000トンのゴミが煙突を通って消えていく

初年度、焼却施設は約4万5000トンのゴミを焼却した。1914年までにその量はほぼ倍増している。とはいえ、ハンブルクは依然としてゴミの埋め立てを続けねばならなかった。その規模は大きく、ゴミは湿地帯の排水や、ロクステット、フールスビュッテル、グロース・ボルステルなどの粘土採掘跡地の埋め立てに使われた。

しかし、本格操業開始からわずか数日で、計画されていた2交代制では搬入されたすべてのゴミを焼却しきれないことが判明した。そこで第3シフトが導入された。当時の技師は「労働者は勤務時間中に持ち場を離れることはできないが、現場で軽食を取ることはできる」と書き残している。

さらなる施設の追加

ブルラーデイクの施設は主に市東部のゴミを焼却していた。ハンブルク北部のゴミは依然として市外の借地に投棄されており、放置ゴミについて多くの苦情が寄せられていた。1907年、市民議会は第2焼却施設の建設を承認した。これはバルムベックのアルター・タイヒヴェークに建てられ、1912年に正式に操業を開始した。ここの炉は、ブルラーデイクのように手作業ではなく、油圧装置を使ってゴミが投入された。その後数十年で、アルトナのルーア通りやボルジヒ通りなど、さらなる施設が相次いで建設された。古い施設の一部は解体・建て替えられ、場所によっては廃止された。

今日では1896年の15倍のゴミが焼却されている

最新のデータによれば、現在稼働するボルジヒ通りとルーゲンベルガー・ダムの2つの施設は、2019年に合計約68万トンのゴミを「熱的リサイクル」――すなわち焼却――した。発生したエネルギーの大部分は、ハンブルクの地域暖房ネットワークへ供給されている。現在では周辺地域からのゴミもハンブルクの焼却施設に搬入されているため単純比較はできないが、今日炉に送られるゴミの量は、最初の焼却施設が操業を始めた1896年当時の15倍に達している。一方、人口は当時の3倍に過ぎない。