1906年8月4日、キールのクルップ・ゲルマニア造船所から、ドイツ帝国海軍初の潜水艦が水面へと滑り込んだ。技術的にも金字塔となる出来事だった。キールの技師や職人たちは、この試作艦に1年以上も心血を注いできた。なぜなら、ドイツは大きく出遅れていたからだ。軍用潜水艦の建造は世紀転換期以前から世界各地で始まっており、アメリカやイギリスはすでに数年前から潜水艦を保有していた。当時の潜水艦建造の先進国フランスでは、熱狂とも呼べるブームが巻き起こっていた。そしてロシアは1904年、3隻の潜水艦を建造させている――その場所が、なんとキールだったのだ。
写真:試験航行中の帝国海軍初の潜水艦「U 1」(Dirk Hempel、NDR.de)
海軍首脳部は潜水艦を認めなかった
なぜドイツはこれほど遅れたのか。帝国海軍庁長官アルフレート・フォン・ティルピッツ大提督にとって、潜水艦は長らく「役立たず」にすぎず、公明正大な海戦から逃げ腰になる臆病者のための武器と見なされていた。彼はヴィルヘルム2世皇帝と同じく、大海軍国イギリスに対抗するには大型装甲艦の建造こそが不可欠だと考えていた。「陽のあたる場所」をめぐる列強との競争において、ティルピッツが「盲目のモグラ」と呼んだ潜水艦は必要なかったのである。
状況が変わったのは、ロシアがキール製の潜水艦を受け取った後、ドイツ独自の潜水艦を求める世論が高まりを見せてからだった。市民階級の間では何十年もの間、潜水艦への関心が根強く、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』に登場するネモ船長と「ノーチラス号」は広く知られていた。数百人もの発明家や素人発明家が潜水艇の計画を携えて繰り返し海軍庁を訪れたが、すべて受け入れられなかった。「牧師、教師、神学生、薬剤師、貯蓄銀行の職員など」と、半官報的な海軍雑誌はあざけっている。
潜水艦建造の経験を積んだキール
1904年、ティルピッツはしぶしぶゲルマニア造船所に最初の潜水艦を発注した。建造を指揮した海軍造船技師グスタフ・ベーリング自身も、潜水艦を「途方もないナンセンス」とみなしていたため、その任務を前にしてすっかり意気消沈したといわれる。
とはいえ、キールには潜水艦建造の経験がそれなりにあった。ドイツで初めて建造された潜水艇「ブランドタオヒャー」は1850年、キール湾沿いの機械工場シュヴェッフェル&ハウアルトで生まれている。さらに1903年には、ゲルマニア造船所がスペイン人設計者レイモンド・デケビレーの設計による潜水艦「フォーレレ」を試験していた。企業家フリードリヒ・クルップが早くから政府からの受注を見込んでいたため、当初は造船所の自己資金によるものであった。ベーリング技師はデケビレーの設計をさらに発展させたが、その設計がフランスの著名な海軍技術者マクシム・ローブーフの考案に基づいていたため、今日まで決着していない盗作論争が持ち上がった。
技術的革新「U 1」
1904年からキールのゲルマニア造船所で建造されたドイツの潜水艦は、複殻式(ダブルハル)という画期的な構造を採用していた。これはローブーフによる発明で、外洋における高速・深深度航行を可能にするものだ。内側に耐圧殻、外側に潜水タンクを備えた外殻を持ち、水上航行用には石油機関、潜航用には電動モーターを搭載していた。全長42メートル、幅3.75メートルの船体には司令塔、潜望鏡、通気管を備え、12人の乗員によって運用された。水深30メートルまで潜航でき、水中滞空時間は12時間。水上での最高速力は8.7ノット(時速約17km)、水中では10.8ノット(時速約20km)に達した。
写真:1906年8月4日、キールのクルップ・ゲルマニア造船所の大型クレーンが、150トンを超える潜水艦を進水させる
1906年8月4日、ゲルマニア造船所の大型クレーンによって150トンを超える船体が水面に下ろされると、潜水艦は数多くの試験航行を実施した。有人・無人での潜航試験には、北独救難協会の揚降船「オーバーエルベ」が協力した。1906年11月、この潜水艦は「U 1」の艦番号を与えられ、翌12月に正式に帝国海軍へ就役した。母港はエッケルンフェルデである。
潜水艦の時代到来
「U 1」の大舞台は1907年春に訪れた。実弾魚雷3本を装備した「U 1」は、気づかれることなく水中から巡洋艦「SMSミュンヘン」に接近したのである。これは衝撃的な出来事となった。驚かされた側の軍艦には、なんとヴィルヘルム2世皇帝が乗艦していたのだから。さらに同年8月には、ユトランド半島を周回する長距離洋上航行を嵐の中でやり遂げ、これを受けて軍の関係者たちもようやく潜水艦の価値を認めた。
写真:キールのクルップ・ゲルマニア造船所はヨーロッパ屈指の潜水艦建造工場となった。画像は1910年頃、艤装岸壁に停泊する「U 7」
以後、潜水艦の建造は極秘事項となり、次世代の艦は西方列強から離れたダンツィヒの帝国造船所で建造されることになった。海軍司令部は徐々に潜水艦隊を編成し、第一次世界大戦の勃発時には28隻の潜水艦を保有していた。ただし「U 1」は1914年の時点ですでに技術的に旧式化しており、試験艦・練習艦として使用されるのみだった。
致命的な兵器へ――「深海の騎士」
開戦後、潜水艦は戦争の圧力のもとで急速な発展を遂げていく。大型装甲艦の多くはイギリス海軍の圧倒的な優勢に対抗できず港にとどまっていたため、海軍司令部は潜水巡洋艦による艦隊の急速な拡充を命じた。合計320隻のドイツ潜水艦が作戦に投入され、終戦までに民間船舶6,000隻以上、軍艦100隻以上を撃沈した。かつての「盲目のモグラ」は、戦争プロパガンダの中で「深海の騎士」へと変貌を遂げたのである。
国際法を踏みにじった潜水艦戦
写真:1915年5月、「U 20」の放った単一の魚雷により沈みゆくイギリス客船「ルシタニア号」。1,000人を超える人々が犠牲となった
しかしやがて、帝国海軍の無制限潜水艦作戦は客船や中立国の商船にも向けられるようになり、国際法違反とされた。1915年5月7日、「U 20」はアイルランド南岸沖でイギリス客船「ルシタニア号」を撃沈し、乗客・乗員1,198人が水底に消えた。
1918年までにドイツは200隻の潜水艦を失い、5,000人を超える海軍将兵が命を落とした。一方で、ゲルマニア造船所は1918年までにヨーロッパ有数の潜水艦造船所へと発展を遂げた。1916年には世界初の貨物潜水艦「ドイッチュラント」がここで建造され、イギリスの海上封鎖を突破してアメリカへの到達に成功している。
現在はミュンヘンの博物館で
写真:現在ミュンヘンのドイツ博物館で見学できる「U 1」。機関室の様子
終戦後、「U 1」はイギリスへの引き渡しから免れ、部品単位で解体されたうえで列車によりミュンヘンへ輸送された。実は1917年、Uボート戦が成功を収めていた絶頂期に、ドイツ博物館はすでにドイツで初めて試験・運用されたこの潜水艦に関心を示していた。1920年代初頭にドイツ最大の科学技術博物館のコレクションに加わり、今日もなおそこでその姿を見ることができる。
2016年8月3日 午後0時19分
編集部より:本記事の初版では、第一次世界大戦中に「U 1」が軍艦5隻と商船13隻を撃沈したと記載していましたが、これは誤りです。同艦は当時すでに旧式化しており、試験艦・練習艦としてのみ運用されていました。誤りをお詫びして訂正いたします。