「アントニウスがレピドゥスを新ローマの指導者に選んだ」というのは、正確には誤解です。歴史の事実としては、マルクス・アントニウス、マルクス・アエミリウス・レピドゥス、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(のちの初代皇帝アウグストゥス)という3人が、対等な立場で権力を分かち合う体制を築きました。これが、紀元前43年から紀元前33年まで共和政ローマを支配した「第二次三頭政治」です。
第二次三頭政治はどのように成立したのか
紀元前44年、ガイウス・ユリウス・カエサルが元老院議員たちの手で暗殺されると、ローマは再び内乱の危機に見舞われました。カエサルの腹心だったアントニウス、遺言で養子に指名されていた若きオクタウィアヌス、そしてカエサル派の古参武将レピドゥス。この3人は、ブルートゥスやカッシウスら共和派(暗殺者たち)に対抗するため、手を結ぶことを決めたのです。
紀元前43年には「ティティア法」が成立し、3人に共和政の危機対応として最高の公的権限が与えられました。ポンペイウス、クラッスス、カエサルによる私的同盟だった第一次三頭政治と違い、第二次三頭政治は法律に基づく公式の統治機構であった点が大きな特徴です。
3人の権力分担
三頭政治のもとで、ローマの支配圏は3つに分割されました。
- アントニウス:ギリシャ以東の東方属州
- オクタウィアヌス:イタリアと西方属州
- レピドゥス:北アフリカの諸属州
紀元前42年のフィリッピの戦いでブルートゥスとカッシウスを撃破し、カエサルの復讐を果たすと、3人の共同支配体制はひとまず安定を迎えます。
体制の崩壊と帝政への道
しかし、この体制は長くは続きませんでした。紀元前36年、セクストゥス・ポンペイウスを破った直後に独断でシチリアの掌握を図ったレピドゥスは、配下の兵士に見捨てられて失脚し、最高神祇官の地位だけを残して政治の表舞台から去ります。
残るアントニウスとオクタウィアヌスの対立は避けられませんでした。東方でエジプト女王クレオパトラ7世と結んだアントニウスに対し、オクタウィアヌスは「ローマの伝統を守る者」として世論の支持を固めていきます。そして紀元前31年のアクティウムの海戦でオクタウィアヌスが決定的な勝利を収めると、翌年アントニウスは自ら命を絶ちました。
こうして第二次三頭政治は幕を閉じ、ローマは共和政から帝政へと大きく転換していきます。最後に勝ち残ったオクタウィアヌスこそ、のちの初代皇帝アウグストゥスその人でした。