ギリシア神話におけるアイアス(古代ギリシア語:Ἀίας Τελαμώνios〈アーオス・テラモーニオス〉、英語読みでは「アヤックス」)は、サラミース王テラモーンとペリボイアの間に生まれた息子で、トロイア戦争を代表する英雄の一人です。同じく「アイアス」の名を持つオイレウスの子(小アイアス)とは、混同しないよう注意が必要です。
トロイア城壁の前で
彼はその堂々たる長身ゆえに「大アイアス」と呼ばれ、同名の「小アイアス」と区別されてきました。トロイアの城壁の上から彼を眺めたプリアモス王は、「頭と輝ける肩のほどで、アルゴス勢より頭一つ背が高い、気高いアカイアの武将」とその姿を讃えています(『イリアス』第3歌、226~227行)。その力強さと勇気において彼に並ぶ者は、アキレウスをおいて他にいません。「アカイア人の城壁」という異名でも呼ばれた彼は、『イリアス』に描かれるあらゆる戦闘で一度も負傷せず、さらに両陣営の主要人物の中で唯一、戦いに介入する神々からの加護を一切受けなかった人物でもあります。
ホメロス以降の伝承では、彼は不死身の存在とされます。クイントゥス・スムルナエウスは『ホメーロス後日譚』(第1巻、564~567行)の中で、次のように記しています。
「槍は……渾身の力で肌を打ち据えながらも、その柔らかき皮膚を貫くことはできない。運命は、嘆きに暮れる敵が、戦場で彼の血にまみれることを許さなかったのだ。」
父テラモーンはアルゴ号探検(アルゴナウタイ)の一員でした。アイアスはトロイア遠征に十二隻の船団を率いて参加します。アキレウスを除けば、ギリシア軍随一の勇猛さと怪力を誇る英雄とされ(『イリアス』第2歌、768~770行)、作中で討ち取ったトロイア兵は十人にのぼります。これはアキレウス、ディオメデス、アガメムノンに次ぐ、ギリシア軍全体で四番目の戦果です。
叙事詩中でも特に有名な場面の一つが、第7歌におけるトロイア王子ヘクトールとの一騎打ちです。ヘクトールが「我が方と戦う勇士を一名、指名せよ」とギリシア陣に挑んだとき、くじに当たって名乗りを上げたのがアイアスでした。激闘は夜が迫るまで続き、ついにゼウスの伝令官が両者を引き分けます。二人は互角であることを認め合い、ヘクトールの言葉によれば、「心を灼く争いのために戦い、友好の約束を交わして別れた」ということになりました(『イリアス』第7歌、301~302行)。別れ際、ヘクトールは剣と剣帯を、アイアスは紫の腰帯を互いに贈り合い、それぞれの陣へ戻りました。この二人の勇者を包む礼節と騎士道精神は、後にアキレウスとヘクトールの間で繰り広げられる凄惨な決闘と鮮やかな対照をなしています。
パトロクロスの葬礼競技では、戦場を覆った霧の退散を神々に祈り、ゼウスは即座にこれを聞き届けました。レスリングではオデュッセウスと対戦しますが、決着はつかず。さらに重装兵競技ではディオメデスと組み合い、彼が傷を負う前にアキレウスが試合を制止する場面もありました。
死
『オデュッセイア』によれば、アキレウスが倒された後、アイアスはアテナの助けを借りてトロイア勢の手からその遺体を奪い返し、武具を譲り受ける名誉をめぐってオデュッセウスと争いました。アテナと、捕虜となったトロイアの子供たち(「トロイアに大きな損害を与えたのはオデュッセウスとアイアスのどちらか」を尋ねられる)の証言が、アガメムノンの裁定を導きます。自分ではなくオデュッセウスが選ばれたことに、アイアスは深く失望し、正気を失いました。天幕から飛び出した彼は、陣営にいた羊の群れをギリシアの指導者たちと勘違いし、その復讐として屠り尽くします。正気を取り戻した彼は、恥辱に耐えかねて、かつてヘクトールから贈られた剣で自らの命を絶ったのです。この結末は、ソフォクレスの悲劇『アイアス』、ピンダロスの『ネメア祝勝歌』、そしてオウィディウスの『変身物語』にも描かれています。
パウサニアスの伝えるところによれば、彼の血からはヒヤシンスの死のときのように赤い花が咲き、その葉には彼の名の頭文字「アイ(Ai)」――同時に嘆きの声を表す言葉でもあります――が浮かび上がったといいます。彼の遺灰は黄金の壺に収められ、ヘレスポントス海峡の入り口にそびえる岬に埋葬されました。
その後、冥界を訪れたオデュッセウスはアイアスと再会します。しかし恨みを抱えたままのアイアスは距離を置いて動こうとせず、旧友の温かな呼びかけに応えることはありませんでした。
英雄崇拝
アキレウスと同様、アイアスもまた死後、ドナウ川河口の「白い島」で生き続けていると信じられました。ホメロス以降の伝説では、彼はアイアコスの孫、すなわちゼウスの曾孫と位置づけられます。サラミース島の守護英雄として同島には神殿と像が建てられ、彼を讃える「アイアンテイア」という祭典が催されました。祭りの際には寝台がしつらえられ、そこに英雄の甲冑一式が安置されます。この慣習は、ローマの「レクティステルニウム」(神々の像を臥台に載せる儀礼)を思わせるものです。
アイアスをアイアコス家(アイアキダイ)の系譜と結びつけたのは、主にサラミース島を巡る争いの後のアテナイ人たちでした。伝えられるところでは、ソロンがアテナイによる島の領有権主張を裏づけるため、『イリアス』に行を書き加えたといいます。こうしてアイアスはアッティカの英雄となり、アテナイの広場(アゴラ)には彼の像が建てられて崇拝を受けました。アテナイの部族「アイアンティス」の名も、彼に由来します。
キモン、ミルティアデス、アルキビアデス、そして歴史家トゥキュディデスなど、数多くの名高いアテナイ人が、アイアスの子孫を自称したと伝えられています。