
モーラ将軍への指揮権委譲と二つの作戦選択
フランコは、24年前にモロッコで共に戦った旧戦友であるエミリオ・モーラ将軍に対し、マドリード正面の全軍の指揮を委ねた。モーラはマドリードから110キロ離れたアビラに司令部を設置した。フランコ、バレラ、モーラの3人が迫られた選択は、軍事的に正しい解決策――すなわち戦力を増強した上で北と南からの挟撃を仕掛けること――か、それともすべてを賭けた大胆な機動、つまり砲兵の射程内に入り次第ただちに市街へ突入するという危険な賭けであった。
ソ連からの援助が増大しつつあったこと、アルバセテ近郊に国際義勇軍が集結しつつあるとの情報、さらに戦争の長期化にドイツ・イタリア両国が不満の色を見せ始めていたことを踏まえ、国民派(ナショナリスト)の指導部は賭けに出ることを決断した。
第三次総攻撃の開始
1936年11月1日、マドリードに対する三度目にして最も強力な攻撃が開始された。モーラ将軍は記者会見を開き、11月7日付で発足する予定だった首都の民政行政を担う人々の顔ぶれを発表した。「ボリシェヴィキ革命の記念祝賀のためだ」と彼は冗談めかして付け加えた。11月4日には、マドリードからわずか13キロの距離にあるヘタフェ飛行場が国民派の手に落ちた。
無差別爆撃とコンドル軍団
ヘタフェ陥落に先立つ10月30日、恐るべき航空爆撃が行われ、少なくとも60人の子どもが命を落とした。この忌まわしい事件は、数年後に第二次世界大戦で繰り広げられる惨劇の予兆となった。11月6日、ヘタフェ陥落の2日後、ドイツのコンドル軍団がセビリアに集結した。1936年秋の時点で同軍団は最大戦力となる約1万人を擁し、爆撃機48機と戦闘機48機からなる航空部隊を有していた。こうして、後のルフトヴァッフェの中核を担う将校たち、すなわち1939年から40年にかけて電撃戦の原理を勝利に導くことになる者たちが、スペイン民衆を相手に新しい戦争様式を実験する機会を得たのである。
「マドリード最後の日々」と報道合戦
ヘタフェ陥落後、ブルゴス放送は「マドリード最後の日々」と題する番組を放送した。翌11月5日には、リスボン放送が世界独占スクープとして、フランコ将軍が白馬にまたがってスペインの首都に入城すると報じた。同じ日、国民派軍は南から進撃し、マドリードの路面電車・バスのターミナル一帯にまで達した。爆撃は激化の一途をたどり、市民に「市が解放されるまで家にとどまれ」と呼びかけ、「有罪」者のみが処罰されると告げるビラが撒かれた。その一方で、砲兵陣地の後方では食糧を満載したトラックが続々と集結しつつあった。
共和国政府の撤退とミアハ将軍の任命
共和派陣営では内閣改造が行われ、初めてアナキスト系の閣僚、とりわけ司法大臣が入閣した。国民派による最強の攻撃前日となる11月6日、政府は自家用車でひそかにバレンシアへ移動し、マドリードの防衛指揮は老将ホセ・ミアハ将軍に委ねられた。彼は若手指揮官たちとともに、降伏条件の取りまとめを監督する役割を期待されて選ばれたのである。バレラ将軍はこれを喜んだ。「あの老いぼれじいさんなど、簡単に打ち負かせる」。だが、この見通しは大きく裏切られることになる。
限界に近づく守備隊
市中心部を守る民兵たちの士気は、慢性的な睡眠不足、絶え間ない爆撃、政府の退去、そして飢えによって底辺まで落ち込んでいた。彼らはすでに48時間何も食べていなかった。一部の地区では弾薬が尽きかけ、砲兵たちは残り弾がわずかしかないと報告していた。
11月7日午前6時、総攻撃開始
11月7日午前6時きっかりに、マドリード周辺に展開する国民派の全火砲が、慎重に選定された目標へ一斉射撃を開始した。大胆な突撃を仕掛ける2個縦隊が、エスパーニャ広場と大学都市(シウダー・ウニベルシタリア)の間を進撃した。各縦隊は1,250名で構成され、正規軍のモロッコ兵500名、外人部隊のスペイン兵600名、さらにアフリカ派遣軍の工兵が含まれていた。一方の縦隊は105ミリ砲中隊に、もう一方は75ミリ砲中隊にそれぞれ支援されていた。