朝、携帯電話を充電しようとコンセントにプラグを差し込もうとしたら、充電器のピンがインド規格だったため、イタリアのソケットに合わないことが判明した。インド規格のプラグを受け入れ、反対側がイタリア規格のピンになっている変換アダプターが必要だ。私とヴィジャイは身支度を整え、近くの市場で変換アダプターとSIMカードを買いに出かけることにした。
朝の買い物と予期せぬ出会い
午前9時、他のメンバーが準備をしている間にヴィジャイと私は建物を出て近所の商店街へ向かった。まだ開いている店はまばらで、一軒の店で女性が掃除をしていた。ヨーロッパ人の女性が箒を持っている姿に驚きつつ、事情を説明すると、彼女は英語が話せないながらも私たちの求めているものを察してくれた。変換アダプターを3ユーロで売ってくれ、SIMカードは次の通りを渡った交差点の先で買えると教えてくれた。
ヴィジャイと私は周辺の路地を探したが、SIMカードを売っている店は見つからず、サービスアパートメントへ戻った。その時にはバーヌとマドゥが朝食と昼食の準備を終えていた。
システィーナ礼拝堂へのチケットとバス移動
ヴィジャイがシスティーナ礼拝堂(バチカン美術館)のチケットをオンラインで予約していた。5枚で約1万インドルピー(約1万5千円)。入館可能時間は正午から午後3時までで、最終入場は12時30分までだった。
グーグルマップによるとアパートから礼拝堂まではバスで1時間。余裕を持って午前10時発のバスに乗る予定だったが、施錠と建物からの移動に5分かかり、バスは目の前で発車してしまった。次のバスは10時半。雨が降り出し、バス停に屋根もなく、路肩で濡れながら待つ羽目に。
ローマのバス初体験
定刻通りバスが来て乗り込むと、車掌がいない。運転手に10ユーロ札を差し出して切符を買おうとしたが、「切符はいらない」と言われた。観光客への無料サービスなのか、土日祝は無料なのかと好意的に解釈した。車内の電子掲示板にはローマ字でバス停名が表示され、ヴィジャイに降りる停留所を何度も確認。「オッタヴィアーノ」だと教えてくれた。
「ピサ」や「ベネツィア」といった地名も表示され、イタリアの大都市名だけでなくローマの地区名でもあることを知った。多くの地名が「ヴィア(Via=通り)」「ピアッツァ(Piazza=広場)」「デッラ(della=~の)」で始まるのを見て、これらの意味を推測し、後で正しかったと確認できた。
長蛇の列とバングラデシュ人ガイド
オッタヴィアーノ停留所で降り、徒歩で礼拝堂へ向かう。周囲には大勢の人々。尋ねながら進むと、道路の端に国内外の観光客が並ぶ長い列が見えた。近づくと、それは1列ではなく3列、全長700メートル以上にも及ぶものだった。
傘や地図、ガイドブック、チケット、懐中電灯を持った「ツアーガイド」が多数いて、「ガイドからチケットを買わなければ一日中並ぶことになる」と観光客を煽る。ガイドの半数はイタリア人、残り半数はインド・バングラデシュ・パキスタン出身らしく、ヒンディー語で話しかけてきた。一人のガイドが「すでにチケットを持っているならアップグレードすれば列に並ばず、館内から反対側の出口へ行ける」と言ったが、私たちは聞き入れなかった。
しかし列の長さを見て不安になりかけた時、一人のガイドがヒンディー語で「ガイドを雇わないか? この列に並ばなくて済む」と声をかけてきた。出身を尋ねると「バングラデシュ」と答えたが、彼のヒンディー語にはベンガル語ではなくウルドゥー語混じりのパンジャーブ語の響きがあった。後でヴィジャイが「パキスタン人かもしれないが、インド人観光客はパキスタン人のガイドを避けるため、バングラデシュ人を名乗るのだ」と指摘し、納得した。
私たちのチケットを見せると、そのガイドは「並ぶ必要はない。ガイドもいらない。まっすぐ進めばすぐ入れる。急げ、時間が過ぎる」と言った。
入場パスと迷路のような館内
急ぎ足で進み、正面玄関をくぐったのは12時20分。家族全員に「もしぐちゃぐちゃになったらこの正面玄関で待ち合わせ」と伝え、場所をよく覚えるよう言った。ヴィジャイが予約書のバーコードを自動発券機のスキャナーにかざし、入場パスを取り出すため階段を上がって行った。
残されたホールには多数の部屋への扉があり、それぞれに列ができていた。オンライン予約なしで当日券を買う人たちの列だろう。私たちもヴィジャイの後を追って階段を上がると、彼が発券機でパスを取り出すところだった。彼がなぜ発券機の場所を知り、バーコードをどう読み取らせるかを理解していたのか、紙チケットが入場券ではなく予約確認書でバーコード付きであることを見抜いていたのか、私には謎のままだった。
館内見学と父との離別
その後2時間半、ゆっくり見学できた。世界最大級と言われる多階層の巨大な建物で、2つの美術館が複数階にわたって併設されている。世界中から数千人の観光客が群れをなして歩き、ガイドが色旗を肩に担いでグループを率いる光景は、インドの巡礼で孔雀の羽を立てて歩く列を彷彿とさせた。
エジプトの碑文や彫刻、ミイラが展示された薄暗い部屋を見て回っている最中、ふと父の姿が見えないことに気づいた。1年半前に右目視神経出血で右目を失明し、左目も白内障で視力が低下している父だ。暗い部屋で我々を見失い、そのまま進んでしまったのだろう。
4人で手分けして探し、上の階まで見たが見つからない。私は1階に戻り、メイン棟を出て中庭(芝生広場)へ向かった。何百人もの人が飲食している中で父を探すがいない。システィーナ礼拝堂の内部まで確認したが、父の姿はなかった。
セキュリティの盲点と再会
警備員に助けを求めたが英語が通じず、館内放送もない。ウォーキートーキーで連絡を取り合うのみで、非常時の避難誘導すら危うい体制に驚愕した。毎日迷子が発生しているはずなのに、このズサンさは何なのか。
ヴィジャイとバーヌを出口付近の待合室に残し、マドゥと私は再び外の長蛇の列の中を父の服装を伝えて尋ね歩いた。幸い英語が通じた係員がいたが、「そんなインド人はいない」との返事。
待合室に戻ると、ヴィジャイが警備室の責任者と話し、全フロアの警備員に「インド人観光客が尋ねてきたら出口へ誘導しろ」と無線で指示を出していた。
再度、父と離れた場所から礼拝堂の反対側出口まで探し直すことにした。孫のディーパが「おじいちゃんはどこ?」と不安そうに尋ねてくる。私の焦りは頂点に達していた。父には現金もカードも宿の住所も電話番号も薬も水も食べ物も何も持たせていなかった。パスポート一冊だけ。この人ごみの中でスタッフが見つけられるわけがない。
巨大な回廊、階段、ロビーを通り、再びあの中庭へ。するとマドゥが「いた! お父さん!」と声を上げた。中庭の縁に座り、通り過ぎる群衆の中から私たちの顔を探していた父。私は何度もこの場所を通っていたのに気づかなかった。マドゥの視線の鋭さに救われた。
「ここで待ってたのか? 約束は正面玄関だったはずだ」と言うと、父は「ここが約束の場所だ。ここで待っていた」と言った。人混みと長い回廊、巨大な扉の連続で場所を混同していたのだ。私が中庭ではなく隣のホールを先に見ていたら、5分で見つかったのに2時間も費やしてしまった。
水とビスケットを渡し、父を連れてヴィジャイたちの待つ出口へ。見学したはずの名作の数々も、心ここにあらずで通り過ぎてしまった。チケットの時間もとっくに過ぎていた。神に感謝し、バス停へ向かった。
言語事情と買い物
「インド人以外はみんな英語ができる」と思っていたが、イタリアでは逆だった。イタリア人の多くはイタリア語しか話せない。インドの田舎でも2言語(方言+ヒンディー語)、都会なら3言語(方言+ヒンディー語+英語)は当たり前。州を越えて移住するインド人はさらに言葉を覚える。インドネシアでも同様に英語不通に苦労した。
夕方の買い出しと教訓
アパートに戻り少し休んでから、ヴィジャイと再び市場へ。野菜、牛乳、SIMカード、両替を済ませた。500ドルで410ユーロ(空港では358ユーロだった)、SIM2枚で約3000ルピー(空港では5000ルピー)。市場の方が圧倒的にお得だった。
全員に100ユーロ(約1万3千円)ずつ渡し、宿の住所・大家の名前・電話番号・携帯番号を書いたメモを各自のバッグに入れさせた。しかし、幼いディーパのコートのポケットにも入れておくべきだったと、帰国後に気づいた。ディーパが人混みで母やヴィジャイにしがみつく習性があったのが唯一の救いだった。